新唐書卷八十五 列傳第十 竇建德

出自と挙兵

  • 竇建德、貝州漳南の人。代々農業を営み、漢の景帝の太后の父安成侯竇充の後裔と自称した。侠気に富み、隣人の葬儀を助けるため耕牛を与えた逸話や、盗賊に単身立ち向かった逸話で知られた。
  • 大業七年(611年)遼東遠征の兵役に補せられたが、逃亡してきた孫安祖を匿い、山東の飢饉と重税を憂えて共に高雞泊で挙兵を計画した。

群雄割拠から夏王へ

  • 高士達の下で司兵となり、隋の郭絢・楊義臣らを計略で撃破して名を上げた。高士達の戦死後、その軍を統率し饒陽を取り、河間丞王琮を寛大に処遇して人心を得た。十三年(617年)正月、河間楽壽で長楽王を自称、十四年(618年)五月夏王と改号し丁丑と建元、百官を整えた。
  • 隋の薛世雄の三万の軍を濃霧に乗じて奇襲し撃破。河間の陥落後、煬帝の死を知り王琮の降伏を受け入れ寛大に処遇した。玄圭の献上を機に国号を「夏」とし五鳳と改元した。

宇文化及討伐と隋の遺臣の登用

  • 化及の煬帝弑逆を大逆として討伐を決意し、聊城を攻略して化及父子・宇文智及らを処刑した。蕭皇后を丁重に迎え、隋の文武官を多数登用(裴矩を尚書右僕射、崔君肅を侍中など)、質素な統治を続けた。

唐との関係と最期

  • 武徳二年(619年)以降、邢・趙・滄・冀・洺の諸州を攻略し洺州(万春宮)に遷都。淮安王李神通・同安長公主・李世勣を捕らえるも礼遇して釈放するなど寛大さを示した。三年(620年)以降、羅藝に幽州で敗れるなど戦況が悪化。
  • 四年(621年)王世充救援のため三十万と号する大軍を発し虎牢で秦王李世民と対峙。淩敬の献策(河東迂回策)を用いず正面決戦を選び、五月の決戦で大敗、負傷して牛口谷に潜んだところを捕らえられ長安で斬られた(年四十九)。挙兵から滅亡まで六年。

【贊】

  • 賛に曰く、煬帝が徳を失い天が隋を醜として憎み、民は怨嗟し群盗が蜂起した。その中でも李密は黎陽により、蕭銑は江陵に興り、竇建德は河北を連ね、王世充は東都を挙げ、互いに牙を研ぎ毒を振るった。中には仁義を仮り賢才を礼する者もあり、いわゆる「盗にも道あり」であった。しかし本質は隋を滅ぼした兇の余気であり、唐の明徳に触れて挫折し、禍が極まって滅び去ったのは当然のことである。