新唐書卷八十五 列傳第十 王世充

出自と隋末の台頭

  • 王世充、字は行滿。祖は西域胡人で号を支頺耨といい、新豐に移住後、妻が霸城の王粲に再嫁し王姓を冒した。書物・兵法・占術に通じ、廕位で左翊衛となり、御府直長・兵部員外郎を経て楊素の北伐に従軍、幽州長史となった。
  • 大業初め民部侍郎となり弁舌と法術に長け、江都贊治・郡丞を経て、煬帝の南巡に取り入り江都通守・宮監事となった。楊玄感の乱に呼応した江南の反乱を鎮圧し功を重ね、隋の将帥として認められた。

隋末の鎮圧と洛陽での台頭

  • 大業十年(614年)孟讓の大軍を都梁山で計略により大破(首級一万・捕虜十余万)、格謙・盧明月ら群盗も討伐した。李密が東都に迫ると将軍として洛口に屯し、大業十四年(618年)洛南の戦いで李密に大敗し河陽に退いたが、越王侗に慰撫され再起。含嘉城に籠り兵を集めた。

越王侗政権の簒奪

  • 江都で煬帝が殺され越王侗が皇帝に擁立されると吏部尚書・鄭国公となった。宇文化及討伐を巡り元文都らと対立し、元文都・盧楚を殺害してその軍権を奪取。李密が化及を破って疲弊した隙に李密軍を偽計(「周公の神託」を装う)で急襲し大破、洛口を奪い自ら太尉・尚書令となった。

鄭国建国と滅亡

  • 武徳二年(619年)越王侗を脅して禅譲させ、国号を鄭とし帝位を僭称、兄弟・子を諸王に封じた。恩赦・訴訟受理などで人心収攬を図ったが実効は乏しく、まもなく越王侗を毒殺した。裴仁基父子らの反乱計画は事前に鎮圧し三族を誅した。
  • 苛烈な統制(連座制・逃亡者の家族皆殺し)により民心が離反し、武徳三年(620年)秦王李世民の東征を受け敗退が続いた。竇建德の来援も李世民に虎牢で撃破され、武徳四年(621年)五月ついに降伏。長安に送られ庶人に落とされ蜀へ徙されることになったが、道中で独孤修徳に殺された。鄭は建国からわずか三年で滅んだ。