新唐書卷八十四 列傳第九 李密
李密、字は玄邃、一字は法主。北魏・北周に仕えた名門の出。隋末、楊玄感の挙兵に参画したのち瓦崗軍に投じて頭角を現し、「魏公」と号して隋末最大級の勢力を築いたが、王世充との決戦に敗れて唐に降った。のち再び叛して討たれた(?–618年、享年三十七)。隋末群雄割拠を代表する人物の一人。
年表(4件)
- 大業九年613年楊玄感の挙兵に加わり献策するも用いられず、玄感は敗死
- 大業十三年617年翟讓から別軍を与えられ「蒲山公」を号し、興洛倉を奇襲で奪取して民心を得る
- 義寧二年618年越王侗から太尉等の官を受け宇文化及討伐に向かい大破するも自軍も消耗
- 武徳元年九月618年王世充の総攻撃で大敗し裴仁基・祖君彦が捕らえられる
出自と生い立ち
- 李密、字は玄邃、一字は法主。先祖は遼東襄平の人。曾祖の弼は北魏の司徒で徒何氏を賜姓され、北周に入り太師・魏国公となった。祖の曜は邢国公、父の寛は隋の上柱国・蒲山郡公。長安に家を構えた。
- 李密は肚が据わり計略に富み、家財を散じて客を養い賢者を礼した。廕位により左親衛府大都督・東宮千牛備身となったが、煬帝に人相を怪しまれ宿衛から外された。宇文述の勧めで学問に励み、楊素に見出されてその才を認められた。楊素の子玄感は李密に心服し交わりを結んだ。
楊玄感の挙兵と失敗
- 大業九年(613年)楊玄感が黎陽で挙兵し李密を迎えた。李密は「上策は幽州を衝いて煬帝の退路を断つこと、中策は関中を保つこと、下策は東都を攻めること」と献策したが、玄感は下策を選び東都を攻めて敗れた。李密の助言(内史舍人韋福嗣を疑うべきこと、李子雄の勧める帝号僭称を避けるべきこと)もことごとく容れられず、玄感は隋軍に敗れて死んだ。
逃亡と瓦崗軍への合流
- 李密は捕らえられたが機知で脱出、姓名を変え各地を放浪した末、東郡の賊翟讓の下に身を寄せた。翟讓に天下の情勢を説き、滎陽の攻略・張須陀の撃破を献策して的中させた。
- 大業十三年(617年)翟讓は李密に別軍を与え「蒲山公」と号させた。李密は軍規を厳しくし戦利品を惜しみなく分配して人心を得た。興洛倉(洛口倉)を奇襲で奪取し、窮民に開倉賑給したところ数十万の民が帰属した。隋の劉長恭・房崱の軍を破り、東都を震撼させた。
魏公即位と洛陽攻防
- 翟讓らに推されて「魏公」と称し、永平と改元、翟讓を司徒とするなど官制を整えた。洛口倉・回洛倉を奪取するも隋軍との攻防が続いた。柴孝和の長安直取策には、部下の多くが山東出身であることを理由に応じなかった。
- 唐の高祖挙兵に際し、李密は自らを盟主と考え書を送ったが、高祖は温大雅に丁重な返書を書かせて李密を持ち上げつつ実質は牽制し、京師確保を優先した。
翟讓誅殺と勢力の内紛
- 部将の王儒信・翟讓の兄翟寛が権力を狙う動きを見せたため、李密は鄭頲と謀り翟讓を宴席で謀殺し、その軍を単雄信・徐世勣・王伯当に分統させた。
宇文化及との戦いと衰退
- 義寧二年(618年)王世充との攻防が続く中、越王侗(洛陽の隋の傀儡皇帝)から太尉等の官を受け、宇文化及討伐に向かった。持久戦で化及を疲弊させ大破したが、自軍も矢を受け大きく消耗した。
- 化及討伐後、翟讓誅殺以来の驕りと将士への恩賞不足により人心が離れ、賈潤甫・徐世勣の諫言も容れなかった。王世充との糧の融通交渉も邴元真の利己心により潰えた。
王世充との決戦と滅亡
- 武徳元年(618年)九月、王世充が総攻撃を仕掛け、裴仁基の献策(東都を衝く奇策)も用いられずに正面決戦となった。王世充が李密に似せた偽者を捕らえたと偽って喧伝したため軍が混乱し大敗、裴仁基・祖君彦は捕らえられ、邴元真も寝返った。李密は黎陽の徐世勣を頼ろうとしたが、かつて翟讓を殺した経緯を案じ、王伯当と共に唐に帰順することを決意し、柳燮の勧めで入関した。
唐への帰順と最期
- 唐に降ったのち光禄卿・邢国公に封じられたが、待遇の低下に不満を募らせた。黎陽の旧部下を招撫する任務を与えられ出発するが、途中で召還の詔を受け、叛意を固めて桃林の駅を襲い挙兵した。熊州副将盛彥師の伏兵に敗れ、王伯当と共に討ち死にした。享年三十七。李密の首は徐世勣の請いにより黎陽山に葬られた。
附伝
單雄信
- 曹州濟陰の人。翟讓と親しく、馬上の槍術に優れ李密軍中で「飛将」と称された。偃師敗北後王世充に降り大将となったが、東都平定の際に斬られた。
祖君彦
- 北斉の僕射祖孝徴の子。博学多才であったが不遇で、李密のために檄文を起草し隋室を痛烈に非難した。李密敗北後、王世充に捕らえられ拷問死し、屍は偃師で戮された。
【贊】
- 賛に曰く、李密を項羽になぞらえる説があるが誤りである。項羽は五年で天下に覇を唱えたが、李密は数十百戦を重ねながら東都すら落とせなかった。楊玄感の乱に際して真っ先に関中攻略を勧めながら、自らが立った後にはそれを実行できなかった点に敗因があった。ただし賢者を礼し人材を得た点は田横に類し、陳勝よりは遥かに優れていた。もし叛かなければ、その雄才は時に容れられたであろう。