新唐書卷七十八 列傳第三 宗室
太祖の八子(総論)
太祖(李虎)の八子は、長男延伯、次男真、三男世祖皇帝(李昞)、四男璋、五男繪、六男禕、七男蔚、八男亮である。南陽公延伯は早世し嗣なく、高祖武徳年間に他の六王とともに追封された。譙王真は太祖に従い戦没し嗣なし。
畢王璋の系――江夏王李道宗
畢王李璋は北周の梁州刺史となり趙王祐と隋文帝暗殺を謀るも失敗し死んだ。子の韶(隋代に没し武徳年間に東平王を追封)の子が道宗である。
江夏郡王李道宗(字承範)は高祖即位後、左千牛備身・略陽郡公。十七歳で秦王(太宗)に従い劉武周討伐に加わり、持久戦を献策して的中させた。霊州総管として梁師都・突厥連合軍を破り、高祖に魏の任城王彰になぞらえられ任城王に封ぜられた。突厥郁射設を五原から追い、貞観三年には李靖の副将として突厥を破り頡利可汗を捕らえる功を立てた。吐谷渾遠征でも単騎で追撃し勝利、江夏王に改封された。
のち貪贓の罪で免官・削封されるも復帰。侯君集の謀反を予見して太宗に進言し的中させた。高麗遠征では偵察を志願して果たし、蓋牟城攻略でも功を挙げたが、安市城攻めで部下の失態により叱責を受けた。高宗永徽初年、房遺愛の反乱に長孫無忌・褚遂良の宿怨により連座させられ、象州への流罪の途上、五十四歳で病没した。子の景恒は盧国公・相州刺史。
李道興・永安壮王李孝基・李涵
道宗の弟李道興は交州都督として在任中に病没。永安壮王李孝基は武徳二年、劉武周討伐で独孤懐恩の裏切りに遭い賊に捕らえられ殺害された。子なく兄の子道立が嗣いだ。その曾孫李涵は粛宗に忠勤を尽くし、河北・浙西の宣慰使、御史大夫等を歴任、尚書右僕射で致仕した。
雍王繪の系――淮陽壮王李道玄・李漢
雍王李繪(隋夏州総管)の孫、淮陽壮王李道玄は若くして武勇を発揮し、劉黒闥討伐で史万宝の躊躇により孤立し十九歳で戦没した。太宗は深く悼んだ。弟道明が嗣いだが罪を得て降格。六世孫の李漢は韓愈の女婿として文名高く、憲宗実録編纂等に携わったが李徳裕との確執で左遷を重ねた。
郇王禕の系――長平粛王李叔良・李孝協・李思訓
郇王李禕(隋の上儀同三司)の子、長平粛王李叔良は薛仁杲討伐で兵站の不備により苦戦したが流矢に当たり戦死。子孝協は贓罪で自殺。弟孝斌の子李思訓は武后の宗室粛清を避けて逃れ、中宗復位後に宗正卿、彭国公。「李将軍山水」と称される画で名高い。弟思誨の子が李林甫である(別伝)。
李德良・李晉
新興郡王李德良は病のため官に就かず没した。孫の李晉は雍州長史として治績を挙げたが太平公主の陰謀に連座して誅殺された。
長樂郡王李幼良
資性凶暴で高祖にたびたび戒められたが改めず、涼州都督在任中に告発され自殺を賜った。
蔡烈王蔚の系――西平懐王李安・襄武郡王李琛・河間元王李孝恭・李晦・濟北郡王李瑊・漢陽郡王李瑰・廬江郡王李瑗
蔡烈王李蔚(北周の朔州総管)の子、西平懐王李安(隋の右領軍大将軍)の子に李琛・李孝恭・李瑊・李瑰がいる。
襄武郡王李琛は突厥への和親交渉に功があり、代々州総管を歴任した。
河間元王李孝恭は沈着有識の将で、高祖の四川平定を助け、蕭銑討伐では水軍を活用した奇策で江陵を陥落させた。輔公祏の乱でも堅壁持久策で撃破し、江南を平定した。栄達後も驕らず太宗に重んじられたが、五十歳で急死。子の崇義・晦のうち李晦は営州都督・雍州長史として治績を挙げ、高宗に厚く信任された。
濟北郡王李瑊・漢陽郡王李瑰
李瑊は尚書左丞を経て始州刺史。李瑰は突厥頡利可汗との和親交渉で毅然たる態度を貫いた逸話が伝わる。荊州都督として辺境の平穏を保った。
濟南郡王李哲の系――廬江郡王李瑗
李瑗は幽州都督時代、隠太子(李建成)と通じ、王君廓の讒言により挙兵を企てたが、王君廓に裏切られ縊殺された。
鄭孝王亮の系――淮安靖王李神通
鄭孝王李亮(隋の海州刺史)の子、淮安靖王李神通は隋末の挙兵を助け、宇文化及討伐・竇建德討伐等で功を立てたが、しばしば功を独占しようとして味方の足を引っ張る失策もあった。左武衛大将軍で没した。
李神通の諸子――膠東郡王李道彥・李孝逸・李國貞・李暠・李齊物・李復・李若水
神通の十一子のうち七人が王に封ぜられた(道彥・孝詧・孝同・孝慈・孝友・孝節・孝義)。太宗即位後、疎属の王はみな公に降格された。
膠東郡王李道彥は父に孝行で知られ、岷州都督などを歴任したが吐谷渾遠征で羌族の怨みを買い大敗し、辺境へ左遷された。
李孝逸(孝逸は公爵のまま)は徐敬業の乱を鎮圧した功で鎮軍大将軍・呉国公となったが、武承嗣らの讒言で流罪となり没した。
李孝同の曾孫李國貞は剛直な吏才で知られ、朔方等の節度使として軍を統べたが、兵の不満を利用した王振の反乱で殺害された。郭子儀が代わって鎮定し、王振を斬った。子の錡は別伝あり。
李孝節の曾孫李暠は清廉な吏として知られ、太原の悪弊(死体を野に放置する習俗)を改めるなどの治績を挙げ、吐蕃との盟約締結にも功があった。弟李暈の子李進も才幹で知られた。
李孝節の四世孫李説は太原の節度留後として内紛を鎮め節度使に至った。
李齊物(字道用)は陝州刺史時代に黄河の砥柱の開削工事で古い鉄戟を発見し「平陸」の銘とともに献上、県名の由来となった。子の李復は各地の刺史・節度使を歴任し治績を挙げたが蓄財癖で世に譏られた。従父の李若水は容儀に優れ朝廷の礼儀に通じた。
襄邑恭王李神符・李從晦
襄邑恭王李神符は高祖挙兵時に長安で捕らわれたが、京師平定後に并州総管等を歴任、頡利可汗との戦で功を立てた。子七人はみな郡王から公に降格。五世孫李從晦は史思明の乱の際に節度使配下として功を挙げ、京兆尹・工部侍郎等を歴任し、人物眼で知られ後に宰相となった楊収を見出した逸話が伝わる。
世祖の四子(総論)
世祖(李昞)の四子は、長男澄、次男湛、三男洪、四男高祖神堯皇帝(李淵)。梁王李澄は早世し嗣なく、武徳年間に追封された。
蜀王湛の系――隴西恭王李博義・渤海敬王李奉慈・李戡
蜀王李湛の子、隴西恭王李博義とその弟渤海敬王李奉慈は驕奢に流れ、太宗に戒められたが改まらなかった。
奉慈の七世孫李戡は幼くして父を失い苦学し、進士挙を恥じて江東に隠棲、当時流行した元稹・白居易らの艶麗な詩風を批判し、正しい唐詩の選集を編んだ。
史論
論じていう。景王(李虎の子孫)・元王(李昞の子孫)の子孫は建国の混乱期に功を立て世に名を馳せたが、なかでも河間王(李孝恭)の功業、江夏王(李道宗)の武略は宗室随一と言うべきである。
唐初、疎属にまで王爵を広げたが、太宗の代に至り、魏徴・李百薬の議論を経て縮小された。魏徴は封建(分封)による負担を、李百薬は帝業の長短は封建の有無によらないことを説いた。後世、名儒劉秩・杜佑・柳宗元らも郡県制と封建制の得失を論じ、杜佑は郡県制を、柳宗元も歴史の実証を通じて郡県制の必然性を説いた。これらの議論は理に適うが、封建と郡県はいずれも時勢に応じた便法であり、一概に論じられるものではない。唐の節度使制度は古の諸侯に類する。ただ李百薬の天命説や杜佑の「郡県制は民に利するが皇統は短命化する」という説は憶測にすぎない。