新唐書卷七十七 列傳第二 后妃下

肅宗廃后張氏

鄧州向城の人、新豊に移り住んだ家柄。祖母竇氏は睿宗昭成皇后の妹で、玄宗に姨として篤く愛された。五子(去惑・去疑・去奢・去逸・去盈)はみな顕官に就いた。

もと粛宗(忠王時代)の良娣。兄張堅が李林甫に陥れられ死んだ際、粛宗は妃を廃したが良娣は寵を独占し、機知に富み粛宗の意を迎えた。安史の乱で玄宗一行が西へ逃れる際、霊武へ向かう決断を支え、軍中で先んじて寝所を守り、産後三日で戦衣を縫うなど気丈に振る舞った。乾元初、淑妃を経て皇后となった。

即位後は李輔国と結んで政に容喙し、蚕を親耕する等の儀礼を盛大に行った。太子(後の代宗)を廃そうと図ったが果たせず、建寧王李倓を讒言により死に至らしめた。粛宗崩御に際し越王李係を擁立しようとしたが、李輔国・程元振が太子を守り、張皇后は別殿に幽閉された。代宗即位後、庶人に落とされ殺された。子の去清・去潜、舅の竇履信も流罪、党与は誅された。

粛宗章敬呉皇后

濮州濮陽の人。父呉令珪の刑死により幼くして掖廷に入る。粛宗が東宮で心労に苦しんでいた頃、玄宗の目に留まり侍女に選ばれ、粛宗の寵を受けた。夢占いの逸話を伴い代宗を生む。十八歳で早世。代宗即位後、皇后に追尊され建陵に合葬された。

代宗貞懿独孤皇后

出自不詳。父独孤穎は左威衛録事参軍。玄宗代、広平王(後の代宗)妃時代の栄華が楊貴妃一族の失脚後に陰り、代宗即位後に貴妃として寵愛を独占、韓王迴・華陽公主を生んだ。大暦十年薨去、皇后を追号された。代宗は深く悼み、長く内殿に殯し、莊陵に葬った。

代宗睿真沈皇后

呉興の人。玄宗代、東宮に入り徳宗を生んだ。安史の乱で洛陽陥落の際に行方不明となり、代宗・徳宗の代にわたり捜索が続けられたが、ついに見つからなかった(高力士の娘や女官による偽の“発見”騒動もあった)。憲宗代、皇太后として発哀・祔廟の礼が行われた。

徳宗昭徳王皇后

出自不詳。徳宗が魯王であった時代に嬪となり順宗を生んだ。貞元三年、危篤の際に皇后となったが冊礼直後に崩御。永貞元年、崇陵に改葬された。

徳宗韋賢妃

戚里の名族の出。祖父韋濯は定安公主を娶る。貞元四年、賢妃に冊立され、徳宗の信任篤く後宮の模範とされた。徳宗崩御後は自ら崇陵の守りを願い出た。

順宗莊憲王皇后

瑯邪の人。代宗代に才人として入宮、順宗の孺人となり憲宗を生んだ。仁厚な性で後宮を化導した。順宗即位後まもなく病篤く皇后冊立は果たせなかったが、憲宗の代に皇太后と尊号された。外戚を厳しく抑え、質素を旨とした。五十四歳で崩御、遺言で簡素な喪礼を命じた。

憲宗懿安郭皇后

汾陽王郭子儀の孫。父郭曖は昇平公主を娶る。憲宗の広陵王時代に妃となり穆宗を生んだ。群臣がたびたび立后を求めたが、後宮の他の寵妃を憚った憲宗は応じなかった。穆宗即位後、皇太后として尊号され、盛大な礼遇を受けた。武宗代には諫言により帝の遊猟を戒めた逸話が伝わる。宣宗即位後は母鄭氏との旧怨から冷遇され、憂悶のうちに崩御。太常官王暤の主張により、後に懿宗代、憲宗廟への祔祀が実現した。

憲宗孝明鄭皇后

丹楊の人(または爾朱氏とも)。李锜の侍人となったのち掖廷に没入、憲宗の寵を受け宣宗を生んだ。宣宗即位後、皇太后として大明宮に迎えられ厚く奉養された。懿宗代、太皇太后。

穆宗恭僖王皇后

越州の人。穆宗の東宮時代に侍り敬宗を生む。長慶年間に妃、敬宗即位後に皇太后となった。会昌五年崩御。

穆宗貞献蕭皇后

閩の人。穆宗の建安王時代に文宗を生む。文宗即位後に皇太后。長らく生き別れの弟を捜し続けたが、蕭洪・蕭本・蕭弘ら詐称者が相次いで現れ、真の弟は結局見つからなかった。「三宮太后」(懿安・宝暦・積慶の三太后)として厚遇された。大中元年崩御。

穆宗宣懿韋皇后

出自不詳。穆宗の東宮時代に侍り武宗を生んだ。武宗即位後、皇太后に追冊され、福陵の造営や穆宗廟への合祔を巡る議論の末、合祔が実現した。

宋若昭(女官・尚宮)

貝州清陽の人。父宋廷芬とその五女(若莘・若昭・若倫・若憲・若荀)はみな学識で知られ、婚姻を望まず学問で名を立てようとした。長女若莘は『女論語』十篇を著し、若昭がこれに注釈を加えた。貞元年間、徳宗に召され「学士」と呼ばれ、宮中の詩文唱和に加わった。若莘没後、若昭が秘閣図籍を統べ、憲宗・穆宗・敬宗の三朝で「先生」と呼ばれ厚遇された。妹若憲も文才で重用されたが、李訓・鄭注らの讒言により大和年間に死を賜った。

敬宗郭貴妃

父郭義は右威衛将軍。長慶年間、太子宮に選ばれ入り、敬宗即位後に才人、晋王普を生んで貴妃となった。文宗即位後も晋王を実子同様に愛した。

武宗王賢妃

邯鄲の人。歌舞に優れ穆宗の代に潁王(後の武宗)に賜られた。武宗即位を助け寵を得たが、出自と無子を理由に立后は果たせなかった。武宗崩御に際し殉死し、宣宗代に賢妃を追贈された。

宣宗元昭晁皇后

出自不詳。若くして邸に入り最も寵を得、鄆王(後の懿宗)・万寿公主を生んだ。懿宗の出自を疑う声があったが、翰林学士蕭寘の墓誌により晴れた。皇太后に追冊された。

懿宗恵安王皇后

出自不詳。咸通年間に貴妃、普王(後の僖宗)を生む。僖宗即位後、皇太后に追尊された。

懿宗郭淑妃

幼くして鄆王邸に入り、鄆王を助けて危機を乗り越えさせた。同昌公主を生み韋保衡に嫁がせたが、保衡は不品行の噂と讒言により失脚死した。黄巣の乱の際に行方知れずとなった。

懿宗恭憲王皇后

出自微賤。咸通年間に寵を得て寿王(後の昭宗)を生み早世。昭宗即位後、皇太后に追尊された。弟は昭宗代に要職に就いたが宦官楊復恭に讒され黔南に左遷、道中で害された。

昭宗何皇后

梓州の人。昭宗の寿王時代に侍り、即位後に皇后となった。光化三年、宦官劉季述のクーデターに際し、璽を差し出して昭宗の安全を図った。朱全忠による東遷の際も昭宗に寄り添い続けた。哀帝即位後、皇太后として積善宮に移されたが、朱全忠は蔣玄暉の陰謀を口実に何皇后を縊殺し、庶人に落とした。