新唐書卷七十六 列傳第一 后妃上
内官制度と後妃観の総説
唐の制度では、皇后の下に貴妃・淑妃・徳妃・賢妃の四夫人を置き、その下に昭儀・昭容・昭媛・脩儀・脩容・脩媛・充儀・充容・充媛の九嬪、婕妤・美人・才人各九人、計二十七人の世婦、宝林・御女・采女各二十七人、計八十一人の御妻を置いた。その他に六尚の官が輿服等を分掌したが、時代により増減があった。開元年間には四妃を廃して恵妃・麗妃・華妃の三妃、六儀、四美人、七才人を置き、尚宮・尚儀・尚服を各二人とするなど『周官』の制を踏まえて改めた。
礼は夫婦を本とし、『詩経』も后妃の詩から始まる。治乱・興亡はここにかかる。盛徳の君主のもとでは後宮の乱れが政に及ばず、淑徳の后妃が内助となる。しかし艶麗な寵妃が現れるのは多くは凡庸な君主の代であり、情に流されて政を乱す端緒となる。武后・韋后が簒奪・弑逆にまで至ったのはこの理による。楊貴妃の存命中に玄宗の政は乱れ、粛宗の代には張皇后が朝を制した。中唐以降は外征・内憂が続き、宦官が力を持ち外戚の勢力は分散したため、後宮の善悪は際立たず、以下、地位を全うした者を中心に記す。
高祖太穆順聖皇后竇氏
京兆平陵の人。父竇毅は周代に上柱国、北周武帝の姉襄陽長公主を娶り、隋では定州総管・神武公となった。
生まれつき髪が長く、三歳で身の丈と等しかった。『女誡』『列女伝』を一読して忘れず、武帝に養われ、突厥出身の后が寵を失っていることを案じて和親策を武帝に進言し、容れられた。武帝崩御に際しては実子同様に哀悼し、隋の受禅を聞いては「わが身が男子であれば舅の家(北周)の禍を救えたものを」と嘆いた。父竇毅は娘の相を見込み、孔雀の絵の目を射当てた者に嫁がせると定め、多くの求婚者の中で高祖(李淵)だけが両目を射抜いて娶った。
姑(元貞太后)に孝を尽くし、文才もあり書も巧みで高祖の筆跡と紛うほどであった。四十五歳で涿郡に没した。生前、高祖が煬帝の下で名馬を蓄えていたのを諫めて災いを避けさせようとしたが聞き入れられず、果たして咎めを受けた。以後は逆に鷹犬・駿馬を献じさせて煬帝に取り入らせ、高祖を将軍に昇らせた。唐建国後、太穆皇后と諡された。
太宗(李世民)出生の際には瑞兆があり、母后に最も愛された。太宗は即位後、母の恩に感じて号泣し、上元年間には太穆神皇后とさらに尊号を加えられた。
太宗文徳長孫皇后
河南洛陽の人。もと拓跋氏の宗室で長孫と号した。曾祖父長孫裕は平原公、祖父長孫兕は左将軍、父長孫晟は隋の右驍衛将軍。
書を好み善悪を鑑とし礼法を重んじた。伯父長孫熾の勧めにより太宗に嫁ぐ。嫁ぐ際、卜占に「后妃の象」と出た。隠太子(李建成)との確執の中、高祖・諸妃への孝と融和に努め、玄武門の変の際には将士を慰めて士気を高めた。
倹約を旨とし、政治への口出しを固辞したが(「牝鶏司晨」の故事を引いた)、罪人の裁きが解けるよう内々に取りなし、他の妃嬪の子も分け隔てなく慈しんだ。兄長孫無忌の重用には固く反対し、漢の呂氏・霍氏の例を戒めとして進言したが、太宗は聞かず登用した。太子承乾の器物増設の願いも退けた。
太宗が急病で倒れた際には病をおして従い、大赦の詔にも「死生は天命、仏道による延命は信じない」と諫めて止めさせた。臨終には房玄齢の左遷を惜しみ、自らの葬は倹約するよう遺言した。三十六歳で崩御。生前著した『女則』十篇には漢の馬后を批判する論も含まれていたが、太宗はこれを称え「良佐を失った」と嘆いた。諡は文徳、昭陵に葬られ、太宗自ら墓誌を撰した。上元年間に文徳聖皇后とさらに尊号を加えられた。
太宗賢妃徐惠
湖州長城の人。五か月で言葉を発し、四歳で『論語』『詩経』に通じ、八歳で文を作った。父徐孝徳の求めに応じ『離騒』に擬した『小山篇』を作り評判となり、太宗に召されて才人となった。文才により充容にまで進んだ。
貞観末、四夷討伐と宮殿造営で民が疲弊するのを見て上疏し、遠征・土木の弊害を切実に諫めた。太宗崩御後は薬を拒み哀慕のうちに没した(二十四歳)。永徽元年、賢妃を追贈され昭陵に陪葬された。弟徐斉聃、その子徐堅も学識で知られ、妹は高宗の婕妤となった。
高宗廃后王氏
并州祁の人。魏の尚書左僕射王思政の孫。同安長公主の推挙で晋王(高宗)妃となり、高宗即位後に皇后となった。父王仁祐は魏国公。
蕭良娣の寵愛や武才人(武則天)の台頭により、王后・蕭良娣・武昭儀の間で寵を争う。武昭儀は自らの娘を殺して王后の仕業に見せかけ、高宗の信を得て王后を失脚させた。永徽六年、王后・蕭良娣は共に庶人に落とされ幽閉、のち武后により惨殺された(姓を「蟒」「梟」に改められる)。中宗即位後に姓は復された。
高宗則天武皇后武氏
并州文水の人。父武士彟は『外戚伝』に見える。太宗の文徳皇后崩御後、十四歳で太宗の才人となる。太宗崩御後は尼となったが、高宗の寵を得て後宮に戻り、王后・蕭淑妃と対立、権謀を用いて王后を追い落とし、永徽六年に皇后となった。
麟徳初年、方士郭行真を宮中に招いて呪詛したことが発覚し、高宗は上官儀に廃后の詔を起草させたが、武后が自ら弁明したため事は流れ、上官儀は誅殺された。以後、政は武后に帰し、朝会では帝と並んで垂簾し「二聖」と呼ばれた。『列女伝』『臣軌』等の編纂を主導し、学士に政務を分掌させて宰相の権を削いだ。
上元元年、天后と号し「建言十二事」(勧農桑・薄賦徭・止兵・杜讒口等)を上奏、多くが施行された。太子李弘を毒殺したとも伝わる。儀鳳年間には帝の頭痛治療で医師を怒鳴りつけたが、快癒すると手厚く報いた。
高宗崩御後、中宗を廃して自ら臨朝し睿宗を立てた。李敬業の乱(徐敬業の反乱)は三か月で鎮圧、裴炎らを誅殺した。銅匭(投書箱)を設け密告を奨励し、酷吏(周興・来俊臣ら)を用いて宗室・大臣を次々に粛清した。薛懐義を寵愛して明堂を造営させ、天授元年には国号を周と改め聖神皇帝を称した(武周革命)。武氏七廟を建て、周文王・武王らを始祖とし、唐の宗廟を廃した。
その後も金輪聖神皇帝と改号し天枢(頌徳碑)を建てるなど権威を誇示したが、酷吏による濫殺(万国俊らの嶺南流人虐殺事件)も伝わる。晩年、薛懐義は誅殺され、張易之・昌宗兄弟が寵を得た。神龍元年、張柬之らのクーデター(神龍革命)により二張は誅され、武后は退位して中宗が復位、上陽宮に移された。同年崩御、八十一歳。則天大聖皇后と諡され乾陵に合葬された。
中宗和思趙皇后
京兆長安の人。父趙瓌は高祖の常楽公主を娶る。中宗が英王であった頃に妃となったが、武后の忌避により幽閉され、餓死した。神龍元年、恭皇后と追諡され定陵に合祔された。
中宗韋皇后
京兆万年の人。中宗の東宮妃、廃位・房州幽閉の苦難を共にし励ました。中宗復位後、上官婉児を通じて武三思と結び、政に容喙した。安楽公主とともに奢侈と権勢をほしいままにし、墨勅斜封(私的な官職任命)を横行させた。景龍四年、中宗を毒殺したとされ、殤帝を立てて臨朝したが、李隆基(後の玄宗)のクーデターにより誅殺された。
上官昭容(上官婉児)
西台侍郎上官儀の孫。父上官廷芝は上官儀とともに武后に誅殺された。母鄭氏のもと、掖廷で育ち文才を発揮、武后に重用され詔命の起草を担った。中宗代に昭容となり武三思と通じ、政務に深く関わった。景雲年間に追復されたが、玄武門の変の際、劉幽求の言により誅殺された。
睿宗粛明劉皇后
儀鳳年間、睿宗の孺人・妃となり寧王・壽昌公主・代国公主を生んだ。武后により竇徳妃とともに呪詛の罪で殺害され、景雲元年に粛明皇后と追諡された。
睿宗昭成竇皇后
玄宗・金仙公主・玉真公主を生んだ。粛明皇后とともに追諡され、東都南に招魂葬された。
玄宗王皇后
同州下邽の人。玄宗の即位を助けたが久しく子がなく、武恵妃の寵愛により地位が揺らいだ。兄王守一が厭勝の術を用いたことが発覚し、開元十二年、庶人に落とされ間もなく卒した。宝応元年、后号を追復された。
玄宗貞順武皇后(武恵妃)
恒安王武攸止の女。趙麗妃・皇甫徳儀・劉才人らを退けて専寵を得たが、皇后への冊立は御史潘好礼の反対で果たせなかった。子女は多くが夭折、後年、李林甫と結んで太子瑛らを廃死させた。四十余歳で薨じ、皇后・諡を追贈された。
玄宗元献楊皇后
華州華陰の人。粛宗を生んだ。玄宗の東宮時代、太平公主の警戒を避けるため堕胎を試みたが果たせず粛宗が生まれた。王皇后が養育し、粛宗即位後に皇后として追尊された。
玄宗貴妃楊氏(楊貴妃)
隋の梁郡通守楊汪の四世孫。もと寿王妃であったが、玄宗に召され「太真」の号で女官となり寵愛を得た。天宝初年に貴妃に冊立され、一族(韓国・虢国・秦国夫人、楊国忠ら)が権勢を極めた。奢侈と外戚の専横は世を騒がせたが、玄宗の寵は変わらず、荔枝を数千里運ばせた逸話も残る。
安禄山の乱に際し、馬嵬にて陳玄礼らにより楊国忠が誅殺され、軍の求めに応じて玄宗はやむなく楊貴妃を縊死させた(三十八歳)。後日、玄宗は改葬を試みたが果たさず、肖像を描かせて偲んだ。虢国夫人らは馬嵬の乱の際に陳倉で自害・誅殺された。
史論
論じていう。武后と韋后の乱はしばしば同一視されるが、その帰結は異なる。武后は高宗の代から実権を握り、皇帝を廃し国号を変えても賞罰を自ら決し、上では簒奪、下では治世を保ったため天寿を全うした。韋后は夫との淫乱・墨勅斜封により政を放埓にし、帝を弑してもなお実権を握れず、玄宗の挙兵にたやすく族滅された。権力の掌握が浅かったためである。二后の末路は後の帝王への戒めとするに足る。