新唐書卷七十九 列傳第四 高祖諸子
高祖二十二子(総論)
竇皇后は建成・太宗・玄霸・元吉を、万貴妃は智雲を、莫嬪は元景を、孫嬪は元昌を、尹徳妃は元亨を、張氏は元方を、郭婕妤は元禮を、宇文昭儀は元嘉および第十九子霊夔を、王才人は元則を、張宝林は元懿を、張美人は元軌を、楊美人は鳳を、劉婕妤は元慶を、崔嬪は元裕を、小楊嬪は元名を、楊嬪は元祥を、魯才人は元曉を、柳宝林は元嬰を生んだ。
隠太子李建成
小字は毘沙門。素行は放縦で酒色・狩猟を好み、博徒と交わった。隋末、高祖に従い挙兵を助け、東討元帥として洛陽を攻略、尚書令となった。高祖受禅後は皇太子。稽胡討伐等で功を立てたが、降兵の処遇を巡り約束を反故にして殺害するなど酷薄な面もあった。
魏徴らの進言により劉黒闥討伐に自ら赴き、寛大な降兵政策で山東の民心を得た。晩年は玄宗(太宗)との対立が深まり、元吉と結んで太宗暗殺を謀った(毒酒事件、楊文幹事件等)。武徳九年、玄武門の変で太宗に射殺された(三十八歳)。子の承宗・承道・承徳・承訓・承明・承義はみな連座して誅殺された。太宗即位後、息王・隠と追封され、礼を尽くして改葬された。
衛懐王李玄霸
幼くして聡明であったが隋大業十年、十六歳で早世し嗣なし。太宗の子李泰が宜都王として祀りを継いだが、後に別の宗室子が嗣いだ。
巣刺王李元吉
小字三胡。生まれつき容貌を母太穆皇后に嫌われたという。長じて猜疑深く好戦的で、奴僕を集めて実戦さながらの訓練を行い死傷者を多く出した。劉武周討伐では狩猟に耽り軍務を怠り、并州陥落を招いた。以後は太宗に従軍するのみとなった。
竇建德討伐等では功も立てたが、隠太子と結んで太宗暗殺を執拗に画策し(昆明池での謀殺計画等)、玄武門の変で太宗の部下尉遅敬徳に討たれた(二十四歳)。子の承業・承鸞・承獎・承裕・承度はみな誅殺。貞観初年、海陵郡王として改葬、のち巣王と改封され曹王李明が嗣いだ。
楚哀王李智雲
初名稚詮。隋末、隠太子に従い河東にあったが捕らわれ、陰世師に殺害された(十四歳)。母万貴妃は高祖に礼遇された。太宗の子李寛が嗣いだが早世、のち李霊亀(済南公李世都の子)が嗣ぎ、魏州刺史として治績を挙げた。
荊王李元景
武徳三年、趙王として立てられ、貞観年間に荊王へ改封。永徽年間、司徒に進んだが、房遺愛の謀反に子の則が連座し、賜死された。神龍年間に王爵を復された。
漢王李元昌
武勇に優れたが太宗の督責に怨みを抱き、太子承乾の謀反に加担、事が露見して賜死された。
酆悼王李元亨
貞観二年、金州刺史として赴任、幼くして太宗に慈しまれたが六歳で薨去、嗣なし。
周王李元方
武徳四年、他の四王とともに立てられたが貞観三年に薨去、嗣なし。
徐康王李元禮
騎射に優れ治績を挙げ、司徒を追贈された。子の李茂は父の姫妾を犯して叱責され、絶食して薨じた李元禮の後を嗣いだが、後に謀反発覚で流罪となり死んだ。
韓王李元嘉
母宇文昭儀は高祖の寵愛を受けた。孝行と学問で知られ、蔵書一万巻に及んだ。弟霊夔と友愛篤く、武后の専横に危機感を抱き、垂拱年間に子の譔・沖(越王の子)らと挙兵を図ったが失敗、自殺を強いられた(七十歳)。子の譔は文才で知られたが誅殺された。神龍年間、爵位を追復された。
彭思王李元則
奢侈により免官されたが後に節を改め、司徒を追贈された。
鄭惠王李元懿
経学を好み獄事の裁定に寛平を旨とした。子孫からは李夷簡・李宗閔・李勉ら宰相を輩出し「小鄭王後」と称された。
霍王李元軌
多才で高祖に愛された。太宗に「経学文雅は漢の河間王・東平王に、孝行は曾子・閔子騫に比す」と評された。定州刺史として突厥の侵攻を計略で退けた逸話や、忠義の民を表彰した逸話が伝わる。越王の乱に連座して黔州へ流される途上で薨去。
虢荘王李鳳
畋猟を好み属官への態度は横柄であったという。子の李邕は韋后の妹を娶ったが、韋氏敗亡後に自ら妻を殺して首を朝廷に送るという行為が世に卑しまれた。孫の李巨は玄宗に才を認められ河南節度使等を歴任、安史の乱鎮圧に功があったが妻の不品行により失脚、段子璋の乱で殺害された。
道孝王李元慶
滑州刺史として治績で知られたが、諸王への俸給が薄いことを憂えても改善されなかった時代の一人。
鄧康王李元裕
学問を好み盧照鄰と親交があった。
舒王李元名
矜厳で家財に頓着しなかった。子の李亶は治績で知られたが丘神勣に讒言され獄死、元名も連座して殺害された。神龍年間に名誉回復。
魯王李靈夔
学問と草隷書、音律に通じた。垂拱年間、越王の乱に連座して流罪となり自殺。子の李藹は謀反を密告して誅を免れたが後に酷吏に害された。孫の李道堅は汴州刺史等で清廉な治績を挙げた。
江安王李元祥
所領での蓄財に貪欲で、「寧ろ儋・崖・振・白(僻遠の地)に赴くも、江(李元祥)・滕(滕王)・蔣(蔣王)・虢(虢王)には仕えるな」と当時の俗謡に謡われた。
密貞王李元曉
虢州・沢州刺史を歴任した。
滕王李元嬰
驕縦で法度を守らず、太宗の喪中に宴楽を催すなど不行状が多く、高宗に厳しく戒められた。属官の妻を犯す等の醜聞もあったが、武后代には開府儀同三司にまで進んだ。