官制総説
- 唐の官制は名号や禄秩が時により増減したが、大抵はみな隋の旧制を踏襲した。官司の別は省・台・寺・監・衞・府と呼ばれ、それぞれ属官を統べ職を分けて位を定めた。貴賤を弁じ労能を敍する仕組みとして品・爵・勲・階があり、随時考覈して昇降させた。これにより羣材を任じ百事を治めた。その法は精密でありながら、実施は簡単で行いやすかった。それは職に常守があり位に常員があったからである。唐の盛時はこのような制度であった。始めは制度を立て紀綱を明らかにし万世の法としようとしたのだが、常に君主が慎んで守らず一時の苟且に流れたため、事はますます繁雑になり官は冗漫になり、ついにその職業を失って復さなくなった。
- 太宗は初め内外の官を省き七百三十員に定めて「私はこれで天下の賢材を待つに足る」と述べた。しかし当時すでに員外置があり、その後さらに特置・同正員が現れた。検校・兼・守・判・知の類はいずれも本制にない。また使の名を置き、事に応じて設置し事が終われば罷めるものと、そのまま存置され廃されないものとがあった。その名類は繁多で挙げ尽くせない。中世以後、盗が起こり兵が興ると軍功の官も現れ、ついにその濫用は止まらなくなった。そこで綱目条理を採って後世の法とすべきもの、及び事は正しくないが後世が慣用として改められないものを、本篇に著す。
宰相の職
- 宰相の職は天子を佐け百官を総べ万事を治める重責である。しかし漢以来、位号は一様でなく、唐世の宰相はとりわけ名が正しくない。唐は隋制により、三省の長である中書令・侍中・尚書令が共に国政を議したのがこれ宰相の職であった。その後、太宗がかつて尚書令であったため臣下がこれを避けて就かなくなり、僕射が尚書省の長官として侍中・中書令とともに宰相と号された。その品位が既に高いため軽々しく人に授けたくなく、常に他官を以て宰相職に居らせ他名を仮した。太宗の時から、杜淹が吏部尚書として朝政に参議し、魏徴が秘書監として朝政に参預し、その後「参議得失」「参知政事」等の名が現れた。いずれも宰相職である。貞観八年、僕射李靖が病を理由に辞位すると、病が小癒えれば三両日に一度中書門下平章事とせよと詔され、「平章事」の名はここに始まる。その後、李勣が太子詹事同中書門下三品となった(侍中・中書令に同じの意)。「同三品」の名はここに始まる。しかし二名は専用されず、他官が居職する場合も他名を仮すことがなお続いた。高宗以後、宰相となる者は必ず「同中書門下三品」を加えられ、品が高い者も同様であった。ただし三公・三師・中書令はそうしなかった。その後、官名が改められ張文瓘が東台侍郎同東西台三品となり、「同三品」が入銜されたのは文瓘に始まる。永淳元年、黄門侍郎郭待挙・兵部侍郎岑長倩等が同中書門下平章事となり、「平章事」が入銜されたのはこれに始まる。以後、唐の終わりまで改められなかった。
- 当初、三省長官は門下省の政事堂で議事したが、その後裴炎が侍中から中書令に遷ると政事堂を中書省に移した。開元中、張説が相となり政事堂の号を「中書門下」と改め、五房(吏房・枢機房・兵房・戸房・刑礼房)を配して分曹で衆務を主らせた。
- 宰相の事は統べぬものがないため一職名の官とはせず、開元以後は常に他職を領して重んじたが、かえって宰相の体を軽くする結果となった。用兵の際は節度使を、儒学を崇ぶ際は大学士を、財用を急ぐ際は塩鉄転運使を、甚だしくは延資庫使を兼ねた。国史・太清宮の類の名も多く、詳しくは取り上げない。
学士の職
- 学士の職は本来文学言語で顧問に備え出入侍従することにより、参謀議・納諫諍に及び、その礼はとりわけ寵遇された。翰林院は待詔の場である。
- 唐制では乗輿の在るところに必ず文詞・経学の士があり、卜・医・伎術の流も別院に直して宴見に備えたが、文書詔令は中書舎人が掌った。太宗時から名儒学士が時に草制に召されたが名号はまだなく、乾封以後に「北門学士」と号された。玄宗初、張説・陸堅・張九齢らを「翰林待詔」として四方の表疏批答・応和文章を掌らせた。まもなく中書の事務繁忙により文書の滞りが多いため文学の士を選び「翰林供奉」と号し集賢院学士と分掌制詔書敕させた。開元二十六年、翰林供奉を学士に改め別に学士院を置き専ら内命を掌らせた。拝免将相・号令征伐は皆白麻を用いた。その後、選用はますます重んじられ礼遇も親しく、「内相」と号され天子の私人ともされた。定員はなく諸曹尚書から校書郎まで選に与った。院に入って一歳で知制誥に遷り、未だ知制誥でない者は文書を作らない。班次は各々の官によるが、内宴では宰相の下・一品の上に居した。憲宗時、また「学士承旨」を置いた。唐の学士のうち弘文・集賢は中書・門下省に分隷したが、翰林学士は独り所属がないため本篇に付記する。
三師三公
- 太師・太傅・太保各一人が三師、太尉・司徒・司空各一人が三公。いずれも正一品。三師は天子が師法とする者で総べる職はなく、適任者がいなければ闕とする。三公は天子を佐け陰陽を理め邦国を平らかにし、統べざるものはない。親王が拝する場合は自ら事に当たらず、祭祀は闕があれば摂す。隋は三師を廃したが、貞観十一年に復置し、三公とともに官属を置かなかった。
尚書省
- 尚書令一人(正二品)は百官を典領する。属官の六尚書は吏部・戸部・礼部・兵部・刑部・工部。兵部・吏部が前行、刑部・戸部が中行、工部・礼部が後行で、行は四司を総べ本行を頭司、余を子司とし庶務は皆ここで会決した。上から下への文書には制・敕・冊(天子用)・令(皇太子用)・教(親王・公主用)・符(省が州に、州が県に、県が郷に下す)の六種があり、下から上へは表・状・牋・啓・辞・牒の六種、諸司相互は関・刺・移の三種があった。内外百司の授事はその発日を程とし受・報の二段階があった。諸州の計奏は事の大小多少で節を定める。符・移・関・牒は必ず都省を経て下す。天下の大事で決しないものは皆尚書省に上げる。制敕計奏の数、省符宣告の節は歳終を断とする。龍朔二年、尚書省を中台、尚書令を廃し尚書を太常伯、侍郎を少常伯と改めた。光宅元年、尚書省を文昌台、後に文昌都省と改めた。垂拱元年に都台、長安三年に中台と改めた。
- 左右僕射各一人(従二品)は六官を統理し令の貳として、令が闕けば省事を総べ御史の糾不当を弾劾する。龍朔二年、左右僕射を左右匡政、光宅元年に文昌左右相、開元元年に左・右丞相と改め、天寶元年に旧に復した。
- 左丞一人(正四品上)・右丞一人(正四品下)は六官の儀を弁じ省内を糾正し御史の挙不当を弾劾、吏部・戸部・礼部は左丞、兵部・刑部・工部は右丞が総べた。郎中各一人(従五品上)・員外郎各一人(従六品上)は諸司の務めを付し稽違を挙げ符目を署し宿直を知り丞の貳となった。都事は受事発辰・察稽失・監印・給紙筆、主事・令史・書令史は文案の署覆・符目の出し入れ、亭長は啓閉・伝禁約、掌固は倉庫の守当及び陳設を担った。諸司も皆同様。隋の尚書省諸司郎及び承務郎は各一人であったが左右司は廃されていた。武徳三年、諸司郎を郎中、承務郎を員外郎に改めた。貞観元年、左右司郎中を復置。龍朔元年、左右丞を左右粛機、郎中を左右承務、諸司郎中を大夫に改めた。永昌元年、員外郎を復置。神龍元年に省き翌年復置した。初め馹駅百人があり符伝の乗送を掌ったが後に廃止。
- 都事各六人(従七品上)・主事各六人(従八品下)。吏部考功・礼部主書もこれに同じ。諸司主事は従九品上。令史各十八人、書令史各三十六人、亭長各六人、掌固各十四人があった。
吏部
- 尚書一人(正三品)・侍郞二人(正四品上)・郞中二人(正五品上)・員外郞二人(従六品上)は文選・勲封・考課の政を掌る。三銓の法で天下の人材を管理し、身・言・書・判と徳行・才用・労効でその優劣を較べ留放を定め注擬した。五品以上は名を上げて制授を聴し、六品以下は資を量って任じた。属官には吏部・司封・司勲・考功の四つがある。
- 吏部郎中は文官の階品・朝集・禄賜、告身・仮使の給を掌り、一人が選補流外官を掌る。員外郎二人のうち一人が南曹を判する。いずれも尚書・侍郎の貳となる。文官九品には正・従があり、正四品以下には上・下があって三十等となる。文散階二十九(開府儀同三司、特進、光禄大夫、金紫光禄大夫、銀青光禄大夫、正議大夫、通議大夫、太中大夫、中大夫、中散大夫、朝議大夫、朝請大夫、朝散大夫、朝議郎、承議郎、奉議郎、通直郎、朝請郎、宣德郎、朝散郎、宣義郎、給事郎、徴事郎、承奉郎、承務郎、儒林郎、登仕郎、文林郎、將仕郎)を数え上げる。四品以上は吏部に番上し、上番しない者は歳ごとに資銭を輸す(三品以上六百・六品以下一千、水旱虫霜は半減)。文芸あり京上する者は州ごとに七人、六十歳で選に簡ばれない者は輸を罷む。勲官も同様。征鎮の功で護軍以上を得た者は納資を三分の一減じる。流外九品は書・計・時務を取り、校試・銓注は流内と略同、「小選」という。
- 吏部主事四人、司封主事二人、司勲主事四人、考功主事三人。武徳五年に選部を吏部と改め、七年に侍郎を省き貞観二年に復置。龍朔元年、吏部を司列、主爵を司封、考功を司績と改めた。武后光宅元年、吏部を天官と改める。垂拱元年、主爵を司封と改める。天寶十一載、吏部を文部と改め至德二載に旧に復した。吏部令史三十人、書令史六十人、制書令史十四人、甲庫令史十三人、亭長八人、掌固十二人、司封令史四人、書令史九人、掌固四人、司勲令史三十三人、書令史六十七人、掌固四人、考功令史十五人、書令史三十人、掌固四人があった。
- 司封郎中一人(従五品上)・員外郎一人(従六品上)は封命・朝会・賜予の等級を掌る。爵は九等(王=食邑万戸・正一品、嗣王・郡王=食邑五千戸・従一品、国公=食邑三千戸・従一品、開国郡公=食邑二千戸・正二品、開国県公=食邑千五百戸・従二品、開国県侯=食邑千戸・従三品、開国県伯=食邑七百戸・正四品上、開国県子=食邑五百戸・正五品上、開国県男=食邑三百戸・従五品上)。皇兄弟・皇子は皆国を封じ親王とし、皇太子子は郡王、親王の子で嫡承する者は嗣王、他の子は郡公とし、恩進の者は郡王に封じ、郡王・嗣王を襲ぐ者は国公に封じた。皇姑は大長公主(正一品)、姉妹は長公主・女は公主(皆一品に視す)、皇太子女は郡主(従一品)、親王女は県主(従二品)。凡そ王・公十五歳以上は朝集に預かり、宗親女婦・諸王長女は月に二参する。内命婦は一品の母が正四品郡君、二品母が従四品郡君、三品・四品母が正五品県君。諸王・公主・外戚の家は卜・祝・占・相を家に入れない。王妃・公主・郡県主で嫠居(寡婦)で子がある者は再嫁しない。外命婦は六等(王・嗣王・郡王の母妻=妃、文武官一品・国公の母妻=国夫人、三品以上母妻=郡夫人、四品母妻=郡君、五品母妻=県君、勲官四品有封者の母妻=郷君)。外命婦の朝参は夫・子の品に視す。諸蕃三品以上の母妻は制により封を授く。流外技術官は母妻を封じない。親王の孺人二人は正五品に視し媵十人は従六品に視す。二品は媵八人(正七品に視す)、国公及び三品は媵六人(従七品に視す)、四品は媵四人(正八品に視す)、五品は媵三人(従八品に視す)。媵を置くにはその数を上申し告身を補う。散官三品以上は皆媵を置く。封戸は三丁以上を率とし歳租の三分の一を朝廷に納める。実封を食む者は真戸を得て諸州に分食する。皇后・諸王・公主の食邑には皆課戸がある。名山・大川・畿内の地は封に含めない。
- 司勲郎中一人・員外郎二人は官吏の勲級を掌る。十二転で上柱国(正二品に視す)、十一転で柱国(従二品)、十転で上護軍(正三品)、九転で護軍(従三品)、八転で上軽車都尉(正四品)、七転で軽車都尉(従四品)、六転で上騎都尉(正五品)、五転で騎都尉(従五品)、四転で驍騎尉(正六品)、三転で飛騎尉(従六品)、二転で雲騎尉(正七品)、一転で武騎尉(従七品)に視す。功による授与は覆実してから奏擬し、戦功は殺獲の数で計る。堅城苦戦で功第一の者は三転。出兵の多寡により上陣・中陣・下陣・跳盪を区別し、殺獲の割合で上獲・中獲・下獲を分けた。酬功の等級(上資・次資・下資・無資)に応じて転数を増減した。凡そ勲官九百人のうち職任のない者は兵部に番上し遠近で十二番に分け、彊幹な者を番頭とし宿衞に留まる者を番とし月上する。外州は五番に分け城門・倉庫を主り執刀する。上柱国以下は四年番上、驍騎尉以下は五年番上し、兵部で簡ばれ散官を授かる。及第しない者は五品以上は復び四年、六品以下は五年番上する。再度中らなければ十二年・八年でそれぞれ六年・四年番上する。勲が上柱国以上に余る者には周以上の親に授け、なければ物を賜う。太常音声人が五品以上の勲を得ても征討の功でなければ簿から除かない。諸州で勲を授かった者は歳ごとに勲の高下を序し三月ごとに戸部に報告し蠲免の必ず検証すべきことを定めた。
- 考功郎中・員外郎各一人は文武百官の功過・善悪の考法及びその行状を掌る。死して史官に伝え太常に諡される場合はその行状を照らして当否を判ずる。碑銘を望む者は百官が議しその宜述するところを聞し家に報せた。考法は百司の長が歳ごとに属官の功過を較べ九等に差し大合衆して読み上げる。流内の官は四善(徳義有聞・清慎明著・公平可称・恪勤匪懈)で敍する。善状の外に二十七最があり、近侍・選司・考校・礼官・楽官・判事・宿衞・督領・法官・校正・宣納・学官・軍将・政教・文史・糾正・句検・監掌・役使・屯官・倉庫・暦官・方術・関津・市司・牧官・鎮防のそれぞれについて最良の基準が定められている(一最四善が上上、一最三善が上中、一最二善が上下、無最二善が中上、無最一善が中中、以下中下・下上・下中・下下と続く)。定考は皆尚書省に集まり唱第の後に奏する。親王及び中書・門下・京官三品以上・都督・刺史・都護・節度・観察使は功過状を奏して考行の上下を覈する。毎歳、尚書省諸司は州牧・刺史・県令の殊功異行、災蝗祥瑞、戸口賦役の増減、盗賊の多少を考司に上げる。監領の官は撫養役使の能で功とし、耗亡があれば十分率で一分を一殿とする。博士・助教は講授の多少で差をつける。親・勲・翊衞は行能功過で三等に分け、上・中・下考とし二上第の者は加階する。番考は別に簿とし侍郎が専掌する。流外官は行能功過で四等(清謹勤公=上、執事無私=中、不勤其職=下、貪濁有状=下下)とする。考課の結果によって禄を加減する。制敕不便で執奏する者はその考を進める。貞観初、歳ごとに京官望高き者二人を定め京官・外官の考を分校させ、給事中・中書舎人各一人が涖して「監中外官考使」と号した。考功郎中が京官考、員外郎が外官考を判した。その後屢々監考・校考・知考使が置かれた。旧例で考簿は朱書だったが吏の姦を防ぐため咸通十四年より墨書とした。
戸部
- 尚書一人(正三品)・侍郞二人(正四品下)は天下の土地・人民・銭穀の政、貢賦の差を掌る。属官は戸部・度支・金部・倉部の四つ。
- 戸部郎中・員外郎は戸口・土田・賦役・貢献・蠲免・優復・姻婚・継嗣の事を掌り、男女の黄・小・中・丁・老で帳籍を作り、永業・口分・園宅で土田を均し、租・庸・調でその物を斂め、九等で天下の戸を定め、尚書・侍郎の貳となる。その後、諸行郎官が銭穀を判じるようになり戸部・度支郎官はその職を失った。会昌二年、令を著し本行郎官が分判するよう定めた。
- 戸部巡官二人、主事四人、度支主事二人、金部主事三人、倉部主事三人。高宗即位後、民部を戸部と改称。龍朔二年、戸部を司元、度支を司度、金部を司珍、倉部を司庾と改めた。光宅元年、戸部を地官と改める。天寶十一載、金部を司金、倉部を司儲と改めた。戸部令史十七人、書令史三十四人、計史一人、亭長六人、掌固十人、度支令史十六人、書令史三十三人、計史一人、掌固四人、金部令史十人、書令史二十一人、計史一人、掌固四人、倉部令史十二人、書令史二十三人、計史一人、掌固四人があった。
- 度支郎中・員外郎各一人は天下租賦・物産豊約の宜、水陸道涂の利を掌り、歳計出るところを支調し近きから遠きに及ぼし、中書門下と議定して奏する。
- 金部郎中・員外郎各一人は天下の庫蔵出納・権衡度量の数、両京の市・互市・和市・宮市の交易の事、百官・軍鎮・蕃客の賜及び宮人・王妃・官奴婢への衣服支給を掌る。
- 倉部郎中・員外郎各一人は天下の庫儲、租税・禄糧・倉廩の出納を掌る。木契百枚を以て諸司出給の数を合わせ、義倉・常平倉で凶年に備え穀価を平らかにする。
禮部
- 尚書一人(正三品)・侍郎一人(正四品下)は礼儀・祭享・貢挙の政を掌る。属官は礼部・祠部・膳部・主客の四つ。
- 礼部郎中・員外郎は礼楽・学校・衣冠・符印・表疏・図書・冊命・祥瑞・鋪設及び百官・宮人の喪葬贈賻の数を掌り、尚書・侍郎の貳となる。五礼は吉・賓・軍・嘉・凶。斉衰心喪以上で奪情従職の場合や周喪未練・大功未葬は宴に預からない。大功以上の喪では冊授涖官の際、鼓吹は従うが奏しない、戎事は例外。朝会で晩入・失儀があれば御史が名を録し俸を奪う(三度奪われれば奏弾)。出蕃冊授・弔贈には衣冠を給する。皇帝巡幸の際、両京文武官職事五品以上は月朔に表参起居し、近州刺史は使を遣わし一参、留守は月ごとに使を遣わし起居する。北都は四時に使を遣わす。諸司が大事を奏する際は前期三日に状を具え長官が躬署し、対仗で伏奏し仗が下れば中書門下が涖読する。河南・太原府の父老は毎歳、行幸を願う表を上げ使を遣わして聞す。駕が都にあれば京兆府も同様。景雲・慶雲は大瑞(名物六十四)、白狼・赤兔は上瑞(名物三十八)、蒼烏・朱雁は中瑞(名物三十二)、嘉禾・芝草・木連理は下瑞(名物十四)とされ、大瑞は百官が詣闕して奉賀、他の瑞は歳終に員外郎が上聞し有司が廟に告げる。喪は三品以上を薨、五品以上を卒、六品から庶人までを死と称した。皇親三等以上の喪は挙哀し有司が帳を具え食を給する。諸蕃首領の喪は主客・鴻臚が月に奏す。
- 礼部主事二人、祠部主事二人、膳部主事二人、主客主事二人。武徳三年、儀曹郎を礼部郎中、司藩郎を主客郎中と改めた。龍朔二年、礼部を司礼、祠部を司禋、膳部を司膳と改め、光宅元年、礼部を春官と改めた。礼部令史五人、書令史十一人、亭長六人、掌固八人、祠部令史六人、書令史十三人、掌固四人、主客令史四人、書令史九人、掌固四人があった。
- 祠部郎中・員外郎各一人は祠祀・享祭・天文・漏刻・国忌・廟諱・卜筮・医薬・僧尼の事を掌る。祭祀に供する珠玉珍宝は市に求めない。駕部・比部が歳ごとに会する牲の死亡は皮を太府に輸す。郊祭の酒醴・脯醢・黍稷・果実は所司の長官が封署して供する。両京及び磧西諸州の火祆は歳に再祀し民の祈祭を禁じる。巡幸の際、路次の名山・大川・聖帝明王名臣の墓は州県が官告で祭る。二王の後裔が享廟する際は牲牢・祭器を給し帷帟・几案を完備、主客が四時に省問する。国忌廃務日は内教・太常が習楽を停め、両京文武五品以上及び清官七品以上は寺観で行香する。名医子弟の療病試験では長官が涖覆し三年で効験ある者を上聞する。
- 膳部郎中・員外郎各一人は陵廟の牲豆酒膳を掌る。諸司供奉の口味は輿を鐍して遣わし進胙も同様。大礼・大慶でなければ食を献ぜず口味を進めない。羊で厨に至って乳する者は釈して長生とする。大斎日は尚食が蔬食を進め殺す羊を釈して長生供奉とする。献食・進口味では犢を殺さない。尚食に急な別索があれば必ず奏覆し月末に会計する。尚食が進食する際は種取して別に嘗める。殿中省主膳は諸陵に上食し番上下で四時に食医・主食各一人を遣わす。
- 主客郎中・員外郎各一人は二王の後裔・諸蕃朝見の事を掌る。二王後の子孫は正三品に視し酅公は歳に絹三百・米粟も同様を賜い、介公は三分の一減じる。殊俗の入朝者は始めて至る州が牒を給しその人数を覆し「辺牒」という。蕃州都督・刺史の朝集日は品により衣冠・袴褶を給する。乗伝の者は日四駅、乗駅の者は六駅。客への供食料は四時に鴻臚に輸し季ごとに句会する。客の初到及び辞去の設会は等級により三品・四品・五品に視し、蕃望が高くない者は散官に視して半減、参日に食を設ける。大海を経由する者には祈羊豕各一を給する。西南蕃使の帰還には入海の程糧を、西北諸蕃には度磧の程糧を給する。蕃客で宿衞を請う者はその状貌年歯を奏する。突厥の使には市坊を置き貿易があれば録奏しその軽重を質し太府丞一人が涖する。蕃王首領が死ねば子孫は初授の官を襲ぎ、兄弟の子は一品降し、兄弟の子で代摂する者は嫡が十五歳になれば政を還す。絶域への使者が還れば見聞・風俗の宜及び供饋贈貺の数を上聞する。
兵部
- 尚書一人(正三品)・侍郞二人(正四品下)は武選・地図・車馬・甲械の政を掌る。属官は兵部・職方・駕部・庫部の四つ。将が出征する際は廟に告げ斧鉞を授け、軍が令に従わなければ大将が専決し帰還日にその罪を具上する。発兵の際は敕書を尚書に降し尚書が文符を下す。十人以下の派遣・十馬以下の発・軍器十以下の出はいずれも敕を待たない。衞士番直で一人以上発する場合は必ず覆奏する。諸蕃首領が至れば威儀郊導を備える。俘馘は絹で酬い、入鈔の俘は司農に帰す。
- 郎中一人は帳及び武官階品・衞府衆寡・校考・告身の給付を判じ、一人は簿及び軍戎調遣の名数、朝集・禄賜・仮告の常を判ずる。員外郎一人は貢挙・雑請を、一人は南曹を判し歳選解状で簿書・資歴・考課を覈する。いずれも尚書・侍郎の貳となる。武散階四十五(驃騎大将軍、輔国大将軍、鎮軍大将軍、冠軍大将軍・懐化大将軍、懐化将軍、雲麾将軍・帰徳大将軍、帰徳将軍、忠武将軍、壮武将軍・懐化中郎将、宣威将軍、明威将軍・帰徳中郎将、定遠将軍、寧遠将軍・懐化郎将、遊騎将軍、遊撃将軍・帰徳郎将、昭武校尉、昭武副尉・懐化司階、振威校尉、振威副尉・帰徳司階、致果校尉、致果副尉・懐化中候、翊麾校尉、翊麾副尉・帰徳中候、宣節校尉、宣節副尉・懐化司戈、禦侮校尉、禦侮副尉・帰徳司戈、仁勇校尉、仁勇副尉・懐化執戟長上、陪戎校尉、陪戎副尉・帰徳執戟長上)。四品以下は兵部に番上し遠近で八番、三月一上とする。三千里以外は番を免じ文散官同様に資を輸し追集の時のみ上番する。六品以下は尚書省が符を送る。懐化大将軍・帰徳大将軍は諸衞に配し上下し、他は諸衞で十二番に分け月上する。忠武将軍以下・遊撃将軍以上は毎番、彊毅な者を選んで諸衞に直させ番満で将略ある者を上聞する。
- 兵部主事四人、職方主事二人、駕部主事二人、庫部主事二人。龍朔二年、兵部を司戎、職方を司城、駕部を司輿、庫部を司庫と改めた。光宅元年、兵部を夏官、天寶十一載に武部、駕部を司駕と改めた。兵部令史三十人、書令史六十人、制書令史十三人、甲庫令史十二人、亭長八人、掌固十二人、職方令史四人、書令史九人、掌固四人、駕部令史十人、書令史二十四人、掌固四人、庫部令史七人、書令史十五人、掌固四人があった。
- 職方郎中・員外郎各一人は地図・城隍・鎮戍・烽候・防人道路の遠近及び四夷帰化の事を掌る。図経は州県の増廃がなければ五年ごとに脩め版籍とともに上げる。蕃客が至れば鴻臚がその国の山川・風土を訊ね図に作って奏し副を職方に上げる。殊俗の入朝者はその容状・衣服を図って上聞する。
- 駕部郎中・員外郎各一人は輿輦・車乗・伝駅・廐牧馬牛雑畜の籍を掌る。給馬は一品八匹、二品六匹、三品五匹、四品・五品四匹、六品三匹、七品以下二匹。給伝乗は一品十馬、二品九馬、三品八馬、四品・五品四馬、六品・七品二馬、八品・九品一馬。三品以上敕召は四馬、五品三馬、六品以下は差がある。駅馬には地四頃を給し苜蓿を植える。三十里ごとに駅があり駅には長がおり、天下四方の駅は千六百三十九。険阻で水草無き鎮戍には路要隙に官馬を置く。水駅には舟がある。伝駅の馬驢はその死損・肥瘠の数を歳ごとに上げる。
- 庫部郎中・員外郎各一人は戎器・鹵簿儀仗を掌る。元日冬至の陳設、祠祀、喪葬にその名数を弁じて供する。戎器は色別に異処に置き衞尉幕士がこれを暴涼する。京衞の旗には蹲獣・立禽を画き行幸には飛走旗を給する。諸衞の儀仗は御史がその庋掌に涖み、武庫の器仗は兵部長官がその脩完に涖む。京官五品以上の征行者には甲・纛・旗・幡・矟を仮し、諸衞には弓を、千牛には甲を給する。
刑部
- 尚書一人(正三品)・侍郞一人(正四品下)は律令・刑法・徒隷・按覆讞禁の政を掌る。属官は刑部・都官・比部・司門の四つ。
- 刑部郎中・員外郎は律法を掌り大理及び天下の奏讞を按覆し尚書・侍郎の貳となる。刑法の書は律・令・格・式の四つ。大獄を鞫する際は尚書侍郎が御史中丞・大理卿と三司使となる。国に大赦があれば囚徒を闕下に集めて聴かせる。
- 刑部主事四人、都官主事二人、比部主事四人、司門主事二人。龍朔二年、刑部を司刑、都官を司僕、比部を司計、司門を司関と改めた。光宅元年、刑部を秋官と改めた。天寶十一載、刑部を司憲、比部を司計と改めた。刑部令史十九人、書令史三十八人、亭長六人、掌固十人、都官令史九人、書令史十二人、掌固四人、比部令史十四人、書令史二十七人、計史一人、掌固四人、司門令史六人、書令史十三人、掌固四人があった。
- 都官郎中・員外郎各一人は俘隷簿録、衣糧医薬の給及びその訴免の理を掌る。反逆連坐で家を没して官曹に配された者は長役して官奴婢とする。一免は一歳三番役、再免は雑戸(官戸とも)で二歳五番役(毎番一月)、三免で良人となる。六十以上及び廃疾者は官戸、七十で良人。毎歳孟春に籍を上げ黄口以上は臂に印し仲冬に都官に送りその生息を条にして按比する。楽工・獣医・騙馬・調馬・羣頭・栽接の人はここから取る。州県に附貫する者は平民同様に按比し番上せず歳ごとに丁資を督す(銭一千五百、丁婢・中男は五分の一を輸し、侍丁・残疾は半輸)。居作は四歳以上を小、十一以上を中、二十以上を丁と三等に分け、丁奴は三当二役、中奴・丁婢は二当一役、中婢は三当一役とする。
- 比部郎中・員外郎各一人は内外の賦斂・経費・俸禄・公廨・勲賜・贓贖・徒役課程・逋欠の物及び軍資・械器・和糴・屯収の入を句会する。京師の倉庫は三月に一比、諸司・諸使・京都は四時に尚書省で句会し後季で前季を句る。諸州は歳終に総句する。
- 司門郎中・員外郎各一人は門関出入の籍及び闌遺の物を掌る。著籍は月に一度改める。流内は官爵・姓名を、流外は年歯・貌状を記す。遷解でなければ除さない。召がある者は墨敕を降し銅魚・木契を勘してから入れる。監門校尉が日ごとに平安を送る。奏事の際は官を遣わし送り昼は時刻を、夜は更籌を題す。命婦諸親の朝参者は内侍監校尉が涖んで検める。葦軬車は宮門に入れない。闌遺の物は門外に掲げ物色を牓示し期年で没官とする。天下の関は二十六あり上・中・下の差がある。度る者は本司が過所を給し塞を出て月を踰える者は行牒を給する。猟手の通過には長籍を給し三月ごとに改める。蕃客の往来はその装重を閲し一関に入れば他関は問わない。
工部
- 尚書一人(正三品)・侍郞一人(正四品下)は山沢・屯田・工匠・諸司公廨紙墨の事を掌る。属官は工部・屯田・虞部・水部の四つ。
- 工部郎中・員外郎各一人は城池土木の工役程式を掌り尚書・侍郎の貳となる。京都の営繕は少府・将作に下しその用を共にし千功を役するものは先に奏する。工匠は州県ごとに団とし五人を火とし五火に長一人を置く。四月から七月を長功、二月・三月・八月・九月を中功、十月から正月を短功とする。雇う者は日絹三尺(内中尚の巧匠は作なければ資を納める)。津梁道路は九月に治める。
- 工部主事三人、屯田主事二人、虞部主事二人、水部主事二人。武徳三年、起部を工部と改め、龍朔二年に司平、屯田を司田、虞部を司虞、水部を司川と改めた。光宅元年、工部を冬官と改めた。天寶十一載、虞部を司虞、水部を司水と改めた。工部令史十二人、書令史二十一人、計史一人、亭長六人、掌固八人、屯田令史七人、書令史十二人、計史一人、掌固四人、虞部令史四人、書令史九人、掌固四人、水部令史四人、書令史九人、掌固四人があった。
- 屯田郎中・員外郎各一人は天下の屯田及び京文武職田・諸司公廨田を品により給することを掌る。
- 虞部郎中・員外郎各一人は京都の衢閧・苑囿・山沢草木及び百官蕃客の時蔬薪炭供頓・畋猟の事を掌る。毎年春、戸小児・戸婢が仗内で蒔種灌漑し冬は蒙覆する。郊祠神壇・五岳名山では樵採・芻牧を禁じ壝から三十歩外は耕種を許し春夏は木を伐らない。京兆・河南府三百里内では正月・五月・九月に弋猟を禁じる。山沢に宝で用に供せるものがあれば上聞する。
- 水部郎中・員外郎各一人は津済・船艫・渠梁・堤堰・溝洫・漁捕・運漕・碾磑の事を掌る。坑陷・井穴には皆標を立てる。京畿には渠長・斗門長がいる。諸州の堤堰は刺史・県令が時に応じて検行しその決築に涖む。埭があれば下戸で分牽し利を争う者を禁じる。