新唐書卷七 本紀第七 徳宗・順宗・憲宗

徳宗――出自と生い立ち

  • 徳宗李适、代宗の長子。母は睿真皇太后沈氏。沈氏は開元末に代宗の宮に入ったが、安禄山の乱で玄宗が蜀へ避難した際、東都に留め置かれた妃妾は賊に捕らえられた。代宗が東都を回復した際に沈氏を得たが、史思明の再陥落で行方不明となった。粛宗代、徳宗は奉節郡王に封じられ、代宗即位後は天下兵馬元帥・魯王、次いで雍王に徙封。宝応元年、陝州に屯し史朝義討伐に功があり尚書令を兼ね、広徳二年、皇太子に立てられた。

徳宗――大暦十四年(779年)

  • 五月、代宗崩御、癸亥に即位。崔祐甫を登用し、常衮を左遷。梨園楽工の削減、貢献物の廃止など倹約策を打ち出した。郭子儀を尚父・太尉・中書令とした。楊炎・喬琳らを宰相とした。

徳宗――建中元年~二年(780~781年)

  • 両税法を初めて定めた。劉文喜の反乱を鎮圧した。楊炎が罷免され殺された。李宝臣の死後その子惟岳が自立し反乱(成徳軍)、田悦(魏博)も反乱、李晟・馬燧・李抱真らが討伐に向かった。梁崇義(山南東道)も反乱し討たれた。李正己(平淄)の死後その子納が自立、李納が徐州などを侵した。

徳宗――建中三年~四年(782~783年)

  • 李惟岳が誅され成徳軍は帰順、田悦・朱滔・王武俊が連合し反乱を拡大、李希烈も反乱を起こし諸州を陥した。十月、涇原の兵が反乱(涇原の変)し朱泚が乱を起こした。徳宗は奉天へ避難、朱泚が皇帝を僭称。李懐光が反乱に加わり官軍は苦戦した。

徳宗――興元元年(784年)

  • 大赦改元。李懐光が反乱、徳宗は梁州へ避難。李晟・渾瑊・尚可孤らが各地で朱泚軍を破り、六月、京師を回復。朱泚・姚令言が誅された。李懐光は追討され最終的に伏誅した。李希烈の乱も次第に鎮圧に向かった。

徳宗――貞元元年~二年(785~786年)

  • 大赦改元。李希烈は顔真卿を殺すなど抵抗を続けたが、貞元二年、伏誅した。李懐光の残党も掃討された。

徳宗――貞元三年~九年(787~793年)

  • 吐蕃との盟約・侵寇が繰り返された(平涼の会盟での裏切りなど)。李泌・董晋・竇参ら宰相が相次いで任免された。李晟・馬燧が薨じた。

徳宗――貞元十年~十六年(794~800年)

  • 韋皐が剣南西川節度使として吐蕃と戦い戦果をあげた。呉少誠(淮西)の反乱があり、諸道の兵で討伐したが決着せず、徳宗は最終的に赦免した。

徳宗――貞元十七年~二十一年(801~805年)

  • 韋皐が吐蕃をたびたび破った。杜佑・鄭余慶・高郢・鄭珣瑜らが宰相を務めた。貞元二十一年正月、皇帝崩御、享年六十四。

順宗――出自と生い立ち

  • 順宗李誦、徳宗の長子。母は昭徳皇后王氏。始め宣城郡王、大暦十四年に宣王、十二月に皇太子となった。人柄は寛仁で学芸を好み隷書を善くし、師傅を礼重した。郜国公主の蠱事に連座しかけたが李泌の保護で免れた。裴延齢・韋渠牟の登用に反対し続け、二人は結局用いられなかった。貞元二十年、中風で瘖(言語障害)を病んだ。

順宗――即位(805年)

  • 貞元二十一年正月、徳宗の病篤きに際し太子は病で見舞えず、癸巳、徳宗崩御。丙申、太極殿で即位。韋執誼を宰相とし、大赦して宮市を廃止、宦官の弊を改める諸策(王叔文・王伾らによる「永貞革新」)を進めた。三月、広陵郡王純(後の憲宗)を皇太子に立てた。

順宗――永貞元年(805年)

  • 八月庚子、皇太子を皇帝に立て自らは太上皇となった。改元。翌元和元年正月、崩御、享年四十六。諡は至徳大聖大安孝皇帝、後に至徳弘道大聖大安孝皇帝と重ねて諡された。

憲宗――出自と生い立ち

  • 憲宗李純、順宗の長子。母は荘憲皇太后王氏。貞元四年、広陵郡王に封じられ、貞元二十一年三月、皇太子となった。永貞元年八月、順宗の詔により即位。

憲宗――元和元年(806年)

  • 大赦改元。剣南西川で劉闢が反乱、高崇文らがこれを討ち成都を克復、劉闢は誅された。夏綏の楊恵琳の反乱も鎮圧された。

憲宗――元和二年~四年(807~809年)

  • 鎮海軍の李錡が反乱し誅された。成徳軍の王士真の死後その子承宗が自立し反乱、吐突承璀を招討使としたが決着せず赦免した。

憲宗――元和五年~八年(810~813年)

  • 王承宗を討つも決着せず赦免。淮西の呉少誠死後その弟少陽が自立。魏博の田季安死後、田興が六州を挙げて帰順、朝廷はこれを厚く遇した。

憲宗――元和九年~十二年(814~817年)

  • 淮西の呉少陽死後その子元済が自立し反乱、憲宗は諸将を動員し長期の討伐戦を展開(裴度・李愬・李光顔ら)。元和十二年十月、李愬が奇襲で蔡州を克服、呉元済は捕らえられ誅された(淮西平定)。

憲宗――元和十三年~十五年(818~820年)

  • 淄青の李師道討伐が進められ、元和十四年二月、師道は伏誅した。韓弘が汴・宋・亳・潁四州を挙げて帰順するなど藩鎮の帰順が相次ぎ、「元和中興」と称される勢いを見せた。仏骨を鳳翔から迎えるなど仏教信仰も篤かった。元和十五年正月、宦者陳弘志らが謀反し、庚子、皇帝崩御、享年四十三。諡は聖神章武孝皇帝、後に昭文章武大聖至神孝皇帝と重ねて諡された。

史論

  • 賛にいう。徳宗は猜忌刻薄で強さを自任し、正論に屈することを恥じ、姦諛に欺かれることを忘れた。蕭復が己を軽んじると疑い、姜公輔を「売直」と謗って容れず、盧𣏌・趙賛を用いて内政を敗乱させながら悔いなかった。奉天の難を経て深く懲りたが、以後は姑息の政治に転じ、朝廷は弱まり方鎮は益々強くなり、唐が亡ぶ患いはここに始まる。憲宗は剛明果断で、即位当初から発憤し僭叛の平定を志し、忠謀を用い群議に惑わされず遂に成功を収めた。呉元済が誅されて以降、強藩悍将もみな過ちを悔いて帰順しようとし、唐の威令はほとんど復振する勢いを見せたが、両者の優劣は比較するまでもない。しかし晩節に至って佞人を信用し事業を全うできず、身に不測の禍を被ったことは徳宗より甚だしい。ああ、小人が国を敗るのは必ずしも愚君暗主に限らない、聡明な君主でも惑わされれば患いを免れないのである。かつて韓愈は「順宗が東宮に在ること二十年、天下は密かにその恩恵を受けた」と言ったが、在位が短く不幸にも病により有為の政を為せなかったのは、また悲しむべきことである。