新唐書卷八 本紀第八 穆宗・敬宗・文宗・武宗・宣宗
穆宗――出自と生い立ち
- 穆宗李恒、憲宗の第三子。母は懿安皇太后郭氏。始め建安郡王、後に遂王に進封。元和七年、恵昭太子が薨じた際、左神策軍中尉吐突承璀は澧王惲を立てようとしたが、その母が卑賎であったため代わりに遂王が皇太子に立てられた。
穆宗――即位(820年)
- 元和十五年正月、憲宗崩御、陳弘志が吐突承璀・澧王を殺した。皇太子が柩前で即位。皇甫鎛が左遷された。大赦し高年に粟帛を賜い、掖庭を放った。蕭俛・段文昌・崔植らを宰相とした。
穆宗――長慶元年(821年)
- 大赦改元。七月、幽州盧龍軍の朱克融が節度使張弘靖を囚えて反乱、成徳軍の王廷湊も節度使田弘正を殺し反乱、河北の乱が拡大した。裴度・王播・杜叔良らが討伐に向かったが苦戦した。
穆宗――長慶二年(822年)
- 魏博軍が潰乱し田布が自殺、史憲誠が留後を称した。裴度・元稹が相次いで罷免され李逢吉が宰相となった。李㝏が宋州で反乱を起こしたが討たれ誅された。景王湛(後の敬宗)を皇太子に立てた。
穆宗――長慶三年~四年(823~824年)
- 各地で旱害への対応が続いた。長慶四年正月、皇帝崩御、享年三十。
敬宗――出自と生い立ち
- 敬宗李湛、穆宗の長子。母は恭僖皇太后王氏。始め鄂王、後に景王に徙封。長慶二年、穆宗が撃毬で病を得た際、裴度らの上疏により景王が皇太子に立てられた。
敬宗――即位(824年)
- 長慶四年正月、穆宗崩御、丙子、皇太子が太極殿で即位。大赦し租税を減じ、鷹犬の貢を廃した。染坊匠張韶の反乱があったが鎮圧された。
敬宗――宝暦元年~二年(825~826年)
- 大赦改元。競渡・角觝など遊興を好んだ。裴度が宰相に復帰。橫海軍の李全略死後その子同捷が反乱、討伐が続いた。幽州盧龍軍で朱克融が殺され内訌が続いた。十二月、宦官劉克明の反乱で皇帝は殺害された、享年十八。
文宗――出自と生い立ち
- 文宗李昂、穆宗の第二子。母は貞献皇太后蕭氏。始め江王に封じられた。宝暦二年十二月、敬宗が崩御しクー克明らが絳王悟を擁立しようとしたが、王守澄・魏従簡ら宦官が神策軍を率いて克明・絳王を誅し江王を立てた。
文宗――大和年間(827~835年)
- 大和元年、改元。李同捷(横海)の反乱を烏重胤・李寰・王智興らが討伐、大和三年、同捷は降り殺された。史憲誠死後の魏博で内訌があり何進滔が留後となった。雲南蛮が巂州・成都を侵し董重質らが討伐した。宋申錫の獄(宦官による讒言事件)があった。大和五年、幽州盧龍軍の内訌で楊志誠が留後を称した。大和九年、王守澄が誅され、李訓・鄭注が宦官掃討を図ったが失敗し、王涯・賈餗・舒元輿ら多数の大臣が仇士良ら宦官により殺された(甘露の変)。
文宗――開成年間(836~840年)
- 開成元年、改元。以後、河陽軍・幽州盧龍軍などで内訌が続いた。皇太子(成美)を廃し潁王瀍(後の武宗)を皇太弟に立てるという宦官仇士良・魚弘志の意向により、開成五年正月、皇帝崩御、享年三十三。
武宗――出自と生い立ち
- 武宗李炎、穆宗の第五子。母は宣懿皇太后韋氏。始め潁王。開成五年正月、文宗の病篤きに際し仇士良・魚弘志が皇太弟に立てた。
武宗――会昌年間(841~846年)
- 即位後、陳王成美・安王溶らを殺した。李徳裕を宰相に登用し治世を主導させた。回鶻がしばしば辺境を侵し、劉沔・張仲武・石雄らがこれを撃退した。会昌三年、昭義軍の劉従諫死後その子稹が反乱、石雄・王宰・何弘敬らが討伐し会昌四年、郭誼が稹を殺して降った。会昌五年、大いに仏寺を毀ち僧尼を還俗させる廃仏(会昌の廃仏)を断行した。会昌六年三月、皇帝崩御、享年三十三。
宣宗――出自と生い立ち
- 宣宗李忱、憲宗の第十三子。母は孝明皇太后鄭氏。始め光王。性は厳重寡言で、宮中では暗愚とみなされていた。会昌六年、武宗の病篤きに際し左神策軍中尉馬元贄が光王を皇太叔に立てた。
宣宗――大中年間(847~859年)
- 即位後、李徳裕を罷免し(後に潮州司馬に左遷)、白敏中らを登用した。吐蕃・回鶻が河西を侵したが撃退された。大中五年、沙州の張義潮が瓜・沙・伊・粛・鄯・甘・河・西・蘭・岷・廓の十一州を挙げて帰順した(河西回復)。各地で軍乱が相次いだが概ね鎮圧された。裴休・崔慎由・蕭鄴らが宰相を歴任した。大中十三年八月、皇帝崩御、享年五十。諡は聖武献文孝皇帝、後に元聖至明成武献文睿智章仁神聡懿道大孝皇帝と重ねて諡された。
史論
- 賛にいう。春秋の法では、君主が弑されて賊が討たれなければその国を深く責める、臣子なき国とみなすからである。憲宗の弑逆は三代を経てもなお賊が在り続けた。文宗に至っても陳弘志らの罪悪を明らかにし国の典刑を正すことができず、辛うじて殺しただけであった、嘆かわしいことである。穆宗・敬宗は昏童で徳を失ったが在位が短かったため天下が大乱に至らなかったが、敬宗はついにその身に及んだ、これでは賊を討つ志があったとは言い難い。文宗は恭倹儒雅で天性から出ており、太宗の政要を読んで慕った。即位後は治に意を注ぎ延英殿での宰臣との対話は夜半に及んだ。しかし仁にして果断さに欠け、父兄の弊(宦官専横)を承けてこれを制する術を得ず、ついにその身を苦しめることとなった。甘露の変では禍が忠良に及び、憤りを飲んで恨むばかりであった。それゆえ陳弘志を殺し得たことは、その志を伸べたともいえる。
- 昔、殷の武丁は一人の傅説を得て商の高宗となった。武宗は一人の李徳裕を用いてその功烈を成した。しかし仏法を除く態度は甚だ鋭かった一方、自らは道家の籙を受け不老の薬を服したのは、聡明さが必ずしも惑わされないわけではないことを示す、ただ好悪の対象が違っただけである。宣宗は聴断に精しく、しかし察を明と誤り、仁恩の心に乏しかった。ああ、これより後、唐は衰えたのである。