肅宗――出自と生い立ち
- 粛宗李亨、玄宗の第三子。母は元献皇后楊氏。初名は嗣昇、陝王に封じられた。開元四年、安西大都護。性は仁孝好学で、玄宗に特に愛され賀知章・潘肅・呂向らに侍読させた。開元十五年、名を浚と改め忠王に封じられ朔方節度大使・単于大都護となった。開元十八年、奚・契丹討伐で河北道行軍元帥として功をあげ司徒に遷った。開元二十三年、名を璵と改めた。開元二十五年、皇太子瑛の廃死を受け翌年皇太子に立てられた。開元二十八年、名を紹と改め、天宝三載、名を亨と改めた。安禄山の反相を見抜き誅殺を請うたが玄宗は聞き入れなかった。
肅宗――霊武即位(756年)
- 天宝十五載、玄宗が馬嵬から蜀へ向かう途中、父老の要請で皇太子は北へ引き返し朔方へ向かった。渭北便橋を渡り、平涼を経て朔方の将吏に迎えられ霊武で兵を治めた。七月甲子、霊武で即位、玄宗を「上皇天帝」と尊び至徳と改元。裴冕を中書侍郎・同中書門下平章事とした。房琯を招討西京・防禦蒲潼両関兵馬元帥としたが陳濤斜で敗績。永王璘が反乱を起こした。
肅宗――至徳二載(757年)
- 正月、安慶緒が父の安禄山を弑した。二月、永王璘の乱が鎮圧され誅された。郭子儀が安慶緒を潼関で破った。四月、郭子儀を関内・河東副元帥とした。五月以降、清渠での敗績など一進一退が続いた。九月、広平郡王俶(後の代宗)が安慶緒を灃水で破り、京師を回復した。十月、陝郡・東京(洛陽)も回復し、慶緒は河北へ逃れた。安慶緒は睢陽を陥し、張巡・許遠・南霽雲らが戦死した。玄宗が蜀郡から帰還し九廟神主が整えられた。
肅宗――乾元元年(758年)
- 正月、改元。安慶緒の部将能元皓が降った。郭子儀ら九節度の兵が安慶緒討伐に向かった。十月、成王俶を皇太子に立てた。
肅宗――乾元二年(759年)
- 三月、九節度の軍が鄴城(相州)で史思明の来援を受け滏水で潰乱、史思明が安慶緒を殺した。郭子儀が東京に屯した。趙王係を天下兵馬元帥、李光弼を副とした。史思明が東京・斉州・汝州・鄭州・滑州を陥した。李光弼が河陽で史思明を破った。
肅宗――上元元年(760年)
- 山南東道の張維瑾の反乱、来瑱の討伐が行われた。改元。李光弼が懐州で史思明を破った。劉展が揚州で反乱、鎮圧された。
肅宗――上元二年(761年)
- 李光弼が北邙で史思明に敗績、史思明は河陽を陥した。史朝義が父の史思明を弑した。段子璋が反乱を起こしたが鎮圧された。九月、大赦し「乾元大聖光天文武孝感」等の号を去り、以後は建子・建丑等の月名を用いる制とした。
粛宗――宝応元年(762年)
- 靖徳太子琮を追冊した。四月、聖皇天帝(玄宗)が崩御、皇太子(代宗)が監国、皇帝(粛宗)も同夜長生殿で崩御、享年五十二。
代宗――出自と生い立ち
- 代宗李豫、粛宗の長子。母は章敬皇后呉氏。玄宗の孫百余人のうち最年長で嫡皇孫であった。聡明寛厚で喜怒を色に表さず、好学強記、易象に通じた。初名は俶、広平郡王に封じられた。安禄山の乱で玄宗が蜀へ避難し粛宗が討賊に留まると、代宗は常にその軍中に従った。至徳二載九月、天下兵馬元帥として朔方・安西・回紇・南蛮・大食等の兵二十万を率い進討、香積寺で安守忠を破り、京城を回復した。陝州で安慶緒の将厳荘を破り東都を回復した。十二月、楚王に進封された。
代宗――乾元元年(758年)
代宗――即位(762年)
- 粛宗の病篤きに際し、張皇后が越王係と謀って太子を除こうとしたが、李輔国・程元振がこれを阻止し係・兗王僩を殺した。粛宗崩御の夜、太子は九仙門で群臣に会し、翌日発喪。己巳、柩前で即位。奉節郡王适(後の徳宗)を天下兵馬元帥とした。
代宗――宝応元年(762年)
- 五月、大赦。李光弼が史朝義を宋州で破った。台州で袁鼂の反乱が起きた。十月、雍王适が史朝義討伐に向かい懐州を克復、横水で破り河陽・東都を回復、汴州も降った。十一月、薛嵩・張忠志ら史朝義配下の諸将が相・衛・洺・邢・趙・定・深・恒・易の諸州を挙げて降った。僕固懐恩が朔方・河北副元帥となった。
代宗――広徳元年(763年)
- 正月、史朝義が自殺し、李懐仙・田承嗣が幽州・魏州を挙げて降り、河北が平定された。来瑱が誅された。梁崇義が襄州で自立、李光弼が袁鼂を討った。七月、「宝応元聖文武孝皇帝」の尊号を上らせ大赦改元。八月、僕固懐恩が反乱。十月、吐蕃が邠州・奉天・武功を侵し京師が戒厳、吐蕃はついに京師を陥し広武郡王承宏を皇帝に立てたが、郭子儀が京師を回復した。
代宗――広徳二年(764年)
- 正月、雍王适を皇太子に立てた。僕固懐恩が朔方軍節度留後渾釈之を殺した。南郊での祭祀と大赦を行った。李光弼が薨じた。吐蕃・突厥が辺境を侵し、京師はたびたび戒厳となった。
代宗――永泰元年(765年)
- 改元。僕固懐恩が吐蕃・回紇・党項羌らと結んで辺境を侵し京師戒厳となったが、郭子儀が霊台で吐蕃を破り解厳。崔旰が劍南西山で反乱を起こし成都を侵した。
代宗――大暦元年(766年)
代宗――大暦二年(767年)
代宗――大暦三年~四年(768~769年)
- 幽州・平盧軍などで留後の交代が相次いだ。吐蕃・李克用一族との攻防が続いた。
代宗――大暦五年~八年(770~773年)
- 魚朝恩が誅された。田承嗣が反乱、諸道の兵で対処した。田承嗣は後に降った。
代宗――大暦十年~十二年(775~777年)
- 田承嗣・李霊耀の反乱が相次いだが鎮圧された。元載が罪により誅された。
代宗――大暦十三年~十四年(778~779年)
史論
- 賛にいう。天宝の乱で大盗が急に起こり天子は出奔した。この時、粛宗は皇太子として兵を治め討賊にあたった、まことにその職を得たものである。しかし僖宗の時代は、唐の威徳がなお人心に残り紀綱も未だ壊れていなかった天宝の頃と異なり、僖宗は蜀に在っても諸鎮の兵が糾合して黄巣を破り京師を回復した。これを思えば粛宗が尊位に即かなくとも賊を破ることはできたであろう。高祖以来、三度も位を子に譲ったが、独り睿宗のみ天戒を畏れ誠心から譲位した。高祖・玄宗はその志であったとは言い難い。代宗の時代は余孽(史朝義以来の残党)がなお存在し、乱を平らげ守成に努めたが、これもまた中材の主というべきであろう。