晉書卷百三十 載記第三十 夏 赫連勃勃(字屈孑)
赫連勃勃、字は屈孑(?–425年)。匈奴の末裔で劉淵と同族。父衛辰を北魏に殺されたのち姚興に仕えて重用されたが、義熙3年(407年)に自立して大夏を建国、統万城を築いて関中を制圧し皇帝を称した。残虐な統治で知られ、死後まもなく大夏は北魏に滅ぼされた。
年表(3件)
- 義熙3年407年天王・大単于を自称し龍昇と改元、国号を大夏とした
- 418年長安を占拠し皇帝位を僭称、昌武と改元した
- 宋の元嘉2年425年死去。在位13年
赫連勃勃――出自と流転の少年期
- 赫連勃勃、字は屈孑。匈奴右賢王去卑の末裔で劉元海(劉淵)と同族。曾祖父の武は劉聰の代に楼煩公に封じられ安北將軍・監鮮卑諸軍事・丁零中郎將として肆盧川に雄拠したが、代王猗盧に敗れ塞外へ出た。祖父豹子は部族を再び糾合し、石季龍から平北將軍・左賢王・丁零単于に任じられた。父の衛辰は塞内に住み、苻堅から西単于に任じられ河西の異民族を統轄し代来城に駐屯。苻堅の国が乱れると朔方の地を領し、精兵3万8千を擁するに至った。
- のち北魏軍の攻撃を受け、衛辰は子の力俟提に迎撃させたが敗れ、魏軍は黄河を渡って代来城を落とし衛辰を捕らえて殺した。勃勃は叱幹部へ逃れたが、叱幹他鬥伏は勃勃を魏へ送ろうとした。他鬥伏の甥阿利は「鳥雀すら人を頼れば助けるもの、まして国破れ家滅んで頼ってきた勃勃を送るのは仁者の道に反する」と諫めたが聞き入れられず、阿利は独断で勇士を送り勃勃を奪い、姚興配下の高平公沒奕于のもとへ届けた。沒奕于は娘を勃勃に娶わせた。
赫連勃勃――姚興への出仕と重用
- 勃勃は身長8尺5寸、腰回り10囲、弁舌に優れ風采も美しかった。姚興はその器量を認め驍騎將軍・奉車都尉として厚遇し、軍国の議に参画させた。興の弟邕は「勃勃は天性不仁、近づけるべきでない」と諫めたが、興は「勃勃には済世の才がある、その才を活かし共に天下を平らげたい」と退けなかった。安遠將軍・陽川侯に任じ、三城・朔方の雑夷と衛辰の旧部衆3万を配して沒奕于の高平守備を助けさせ、対北魏の偵察役とした。姚邕はなおも「勃勃は上に対して驕り部下には過酷、貪欲で情に薄く去就も軽々しい、過分な寵愛は必ず辺境の害となる」と諫めたが、興は聞かなかった。
- 間もなく勃勃は持節・安北將軍・五原公に進み、三交五部の鮮卑や雑虜2万余落を配され朔方に鎮した。河西鮮卑の杜崙が馬8千匹を姚興に献上し黄河を渡って大城に至った際、勃勃はこれを引き留め、高平川での狩猟を装って軍3万を招集、沒奕于を急襲して殺しその部衆を併呑、勢力は数万に達した。
赫連勃勃――大夏建国と嶺北侵掠
- 義熙3年(407年)、天王・大單于を僭称し境内を大赦、龍昇と改元して百官を置いた。匈奴を夏后氏の末裔とみなし国号を「大夏」とした。長兄右地代を丞相・代公、次兄力俟提を大將軍・魏公、叱幹阿利を御史大夫・梁公、弟阿利羅引を征南將軍・司隷校尉、若門を尚書令、叱以鞬を征西將軍・尚書左僕射、乙鬥を征北將軍・尚書右僕射とし、以下も順に任じた。
- 鮮卑薛幹ら3部を討ち破って万余の兵を降し、姚興の三城以北の守備を攻め将楊丕・姚石生らを斬った。将たちは要害に拠って都を定めるよう勧めたが、勃勃は「大業はまだ緒についたばかり、関中の攻略は時期尚早、軍を一所に固めれば敵の集中攻撃を受ける、雲騎風馳のごとく神出鬼没に動き敵を疲弊させれば10年を待たず嶺北・河東はすべて我が物となる、姚興の死後に長安を取ればよい、姚泓など取るに足らぬ小児だ」と述べ、嶺北への侵掠を続けた。嶺北の諸城は昼間も門を開けられぬほど恐れた。姚興は「姚邕(幼名黄兒)の言に従わなかったばかりにこうなった」と嘆いた。
赫連勃勃――禿髮傉檀との陽武の戦い
- 勃勃は禿髮傉檀に婚姻を求めたが拒まれ、怒って騎兵2万で討ち、殺傷万余人、2万7千人と牛馬羊数十万を掠奪して引き上げた。傉檀が追撃した際、将焦朗は「勃勃は油断ならぬ相手、掠奪品を持ち帰ろうとする兵は却って死に物狂いになる、万斛堆で水を頼りに陣を張り退路を断つべき」と慎重策を勧めたが、将賀連が速追を主張し傉檀もこれに従った。勃勃はこれを喜び、陽武の峡谷に氷の壁と車を埋めて道を塞ぎ、傉檀軍の矢が勃勃の左腕を傷つけたものの、迎撃して大敗させ80余里追撃、大将十余人を斬って京観(髑髏台)を築き、嶺北へ引き上げた。
赫連勃勃――姚興軍との連戦(嶺北平定)
- 姚興の将張佛生を青石原で破り5700人を捕虜・殺害。興が齊難に2万の兵で討伐させると勃勃は河曲へ退き、難が油断して掠奪に手を出した隙を突いて7千余人を捕らえ、木城でも難本人を捕虜にし、将士1万3千・戎馬1万匹を得た。嶺北の夷夏で降る者が数万に達し、勃勃は守宰を配して統治した。さらに騎兵2万で高岡・五井に入り平涼の雑胡7千余戸を後軍に配し、依力川に駐屯した。
- 姚興の大軍が三城に来ると、勃勃は敵の集結前を狙って撃破、姚文宗を偽退で誘い伏兵で挟撃して姚楡生らを捕らえた。羌胡3千余戸を率いて敕奇堡に籠った王奚は勇猛で勃勃軍も損害を受けたが、水源を堰き止めて降伏させた。勃勃は「そなたは忠臣だ、共に天下を平らげよう」と語ったが、奚は「大恩を賜るなら速やかな死こそ恵み」と述べ、一族数十人と共に自刎した。さらに金洛生・彌姐豪地を破って7千余家を大城に移し、丞相右地代を幽州牧として鎮させた。
赫連勃勃――安定攻略と王買德の来奔
- 尚書金纂を平涼に送るが姚興の救援に敗死。兄の子羅提は定陽で姚廣都を降し将士4千余を生き埋め、女子供を軍の褒賞とし、廣都自身は太常に任じた。清水城の姚壽都も破り、1万6千家を大城に移した。同年、齊難・姚廣都の謀反が発覚しいずれも誅殺された。
- 姚興の将姚詳が三城を捨てて大蘇へ逃れると、平東鹿奕於がこれを要撃して捕らえ、勃勃は詳の罪を数えて斬った。安定を攻めた際は姚興の将楊佛嵩を青石北原で破り4万5千の降兵と戎馬2万匹を獲得、東郷の党智隆も降して光禄勲に任じ3千余戸を貳城に移した。姚興配下の鎮北参軍王買德が来奔すると、勃勃は「朕は大禹の後裔、漢・魏と覇を争った家系だが中衰し人に制せられてきた、今こそ大禹の業を復すべき時と思うがどうか」と問い、買德は大業への賛意を示しつつ「秦の政は衰えたがなお藩鎮は健在、力を蓄え時を待つべき」と諫言し、勃勃はこれを喜んで軍師中郎將とした。
赫連勃勃――統万城の造営
- 境内を大赦し鳳翔と改元、叱幹阿利を将作大匠として嶺北の夷夏10万人を動員し、朔方水の北・黒水の南に都城を造営した。勃勃は「天下を統一し万邦に君臨する」との意から「統万」を都城名とした。阿利は工巧だが残忍で、蒸した土で城壁を築き、錐が一寸でも入れば作業者を殺してそのまま壁に築き込むほどの苛烈さであったが、勃勃はこれを忠誠と見て造営を任せた。武器の製造でも、鎧を射通せなければ弓の職人を、通れば鎧の職人を斬るという苛酷な検品を行い、犠牲になった工匠は数千人に及んだが、そのため器物は精緻を極めた。「大夏龍雀」と名付けた名刀を鋳造し、飛廉・翁仲・銅駝・龍獣の像を黄金で飾り宮殿前に並べた。
赫連勃勃――赫連氏への改姓と王位継承の整備
- 乞伏熾磐討伐を議した際、王買德は「熾磐は同盟国であり喪に服したばかり、これを討つのは道理に反する」と諫め、勃勃は「善哉、そなたなくばこの言を聞けなかった」と称えて中止した。
- のち詔を発し、匈奴を夏后氏の苗裔と位置づけつつ母姓の劉を名乗るのは礼に反するとして、天と血縁で結ばれるという意味を込め「赫連」に改姓、支流の一族は「鉄伐」を氏として鋭利な武を象徴させた。妻梁氏を王后、子璝を太子とし、他の子には延を陽平公、昌を太原公、倫を酒泉公、定を平原公、満を河南公、安を中山公にそれぞれ封じた。
赫連勃勃――姚秦への総攻撃
- 姚興の将姚逵を杏城で20日かけて攻略し、逵と将姚大用・姚安和・姚利僕・尹敵らを捕らえ、戦士2万人を生き埋めにした。御史中丞烏洛孤を沮渠蒙遜のもとへ遣り盟約(両国の友好と共同行動を誓う文言)を結び、蒙遜は沮渠漢平を送って応じた。
赫連勃勃――上邽・安定の攻略と嶺北平定の完成
- 姚泓の将姚嵩が氐王楊盛と対峙していると聞き、騎兵4万で上邽を襲おうとしたが、着く前に嵩は盛に殺された。勃勃は上邽を20日で落とし、泓の秦州刺史姚平都と将士5千人を殺し城を破壊。陰密も攻めて興の将姚良子と将士万余人を殺し、子の昌を使持節・前將軍・雍州刺史として陰密に鎮させた。泓の将姚恢が安定を捨てて長安へ逃げると、安定の胡儼・華韜が戸5万を率いて勃勃に降り、儼を侍中、韜を尚書に任じ、鎮東羊苟兒に鮮卑5千を配して守らせた。姚泓の将姚諶を雍城で破り諶は長安へ逃走、勃勃は郿城まで進んだが姚紹の迎撃を受け安定へ退いた。胡儼らは羊苟兒を殺して姚泓に城を返還したが、勃勃は杏城に引き上げ、群臣に「劉裕の秦討伐は成功するだろうが、関中平定後は速やかに帰還するはず、その隙に取れば拾い物同然」と述べ、軍を休養させた。まもなく安定を再び占拠し、姚泓の嶺北の郡県はことごとく降伏、勃勃は嶺北全土を手中にした。
赫連勃勃――長安占領と皇帝即位(418年)
- 劉裕が姚泓を滅ぼし長安に入ると、勃勃に和議と義兄弟の約を求める書を送った。勃勃は中書侍郎皇甫徽に文を作らせて暗誦し、裕の使者の前で口授して即席の返書とした。裕はその文才に驚嘆し、使者からも勃勃の威容と英武を聞いて「私も及ばぬ」と嘆じた。勃勃が統万へ帰ると、裕は子の義真に長安を守らせて帰還した。これを聞いた勃勃は王買德に長安攻略の方策を問い、買德は「劉裕の秦平定は徳政を伴わぬ乱の入れ替えに過ぎず、弱年の義真に守らせているのも早々に簒奪を進めたいがゆえ、青泥・上洛の要路を遊軍で断ち、潼関・崤陝を塞いで水陸を絶ち、恩沢を布告すれば三輔の父老は喜んで迎え、義真は孤立して戦わずして降るだろう」と献策した。
- 勃勃はこれに従い、子の璝を都督前鋒諸軍事・撫軍大將軍として2万の騎兵で南征させ、赫連昌は潼関に、買德は青泥の遮断に配置し、勃勃自身も大軍を率いて続いた。璝が渭陽に至ると降伏者が相次いだ。義真の将沈田子が迎撃したが不利となり退却、田子は司馬王鎮惡と不和のすえこれを殺し、義真も田子を殺すという内紛が起きた。関中の郡県はことごとく降り、璝は長安夜襲に失敗したが咸陽を占拠し兵糧の道を断った。劉裕は義真を洛陽へ召還し硃齡石を雍州刺史として長安守備に当てたが、義真の掠奪により百姓は齡石を追い出し勃勃を迎え入れた。璝は東へ逃げる義真を3万で追撃し大破、義真は単騎で逃走。買德は晋の傅弘之・蒯恩・毛脩之を青泥で捕らえ京観を築いた。勃勃は長安で将士を大いに饗し、王買德に「そなたの見通しが的中した、これは宗廟社稷の霊のみならずそなたの功だ」と称え、都官尚書・冠軍將軍・河陽侯に任じた。
- 赫連昌も潼関で齡石・王敬を破って捕らえ長安へ送った。群臣が即位を勧めると勃勃は「乱を撥むほどの才もなく12年戦い続けてなお天下は一つにならぬ、王位を譲って朔方で余生を送りたい」と辞退したが、群臣の重ねての請願で受諾し、灞上に壇を築いて皇帝位を僭称、境内を大赦し昌武と改元した。将叱奴侯提に蒲阪の晋并州刺史毛德祖を攻めさせ、德祖は洛陽へ逃れ、侯提が并州刺史として蒲阪に鎮した。
赫連勃勃――韋祖思誅殺と統万への遷都堅持
- 長安に戻った勃勃は隠者の京兆韋祖思を召したが、祖思が過度にへりくだって拝礼したため、勃勃は「国士として招いたのに卑屈な態度で応じるとは何事か、姚興にも拝さなかったそなたが自分にだけ拝すとは、自分が死ねば筆をとって何と書くつもりか」と怒り、これを殺した。
- 群臣が長安への遷都を勧めたが、勃勃は「長安が歴代の帝都で山河の要害を持つことは承知しているが、荊・呉は遠く憂いにならぬ一方、東の北魏とは境を接し統万まで数百里しかない、長安に都を移せば北京(統万)を守れなくなる恐れがある、統万にいれば魏も渡河を恐れて手を出さない」と述べ移らなかった。長安には南台を置き、璝を大將軍・雍州牧・録南台尚書事とした。
赫連勃勃――統万頌碑と国家儀礼の整備
- 統万に戻り宮殿が完成すると境内を大赦し真興と改元、都城の南に功徳を頌える石碑を建てた。その文は、大禹の治水の功業から夏后氏の伝統を語り起こし、匈奴の南北への威勢の広がり、関中への侵攻の武功を称え、統万城の壮麗さ(高楼・宗廟・明堂・路寢などの造営、諸国からの貢献物を用いた美麗な宮殿群)を詳細に描写し、周の宣王の室廟建立の故事になぞらえて称賛する内容で、秘書監胡義周の作。
- 南門を朝宋門、東門を招魏門、西門を服涼門、北門を平朔門と名付けた。高祖訓兒を元皇帝、曾祖武を景皇帝、祖父豹子を宣皇帝、父衛辰を桓皇帝と追尊し廟号を太祖、母苻氏を桓文皇后とした。
赫連勃勃――暴虐な晩年と大夏の滅亡
- 勃勃は生来凶暴で殺戮を好み、統治に一貫性がなかった。常に城壁の上で弓と剣を側に置き、気に入らぬことがあれば自らの手で人を殺し、目を背けた群臣の目をえぐり、笑った者の唇を裂き、諫言する者は誹謗とみなして舌を切ってから斬るという有様だった。夷夏の民は騒然とし生きる望みを持てなかったという。在位13年、宋が禅譲を受けた後、宋の元嘉2年(425年)に死去。子の昌が跡を継いだがまもなく北魏に捕らえられ、弟の定が平涼で僭号したが結局北魏に滅ぼされた。勃勃から定まで、あわせて26年で滅亡した。
史論
- 史臣は、赫連勃勃を蛮夷の醜類が辺境に入り込み、中原分裂に乗じて姦悪をほしいままにし朔方を領有した存在と評す一方、天象になぞらえて宮殿を築き神都を模して社を建て、先王の称号を僭称し中国の礼容を備え、賢才を駆使して天下を窺った点を指摘する。その器量・風骨は際立ち、姚興はこれに心酔し、宋の武帝(劉裕)もその名を聞いて顔色を変えたほどで、これは陰山の地に宿る異気のゆえかと問いかける。雄略は人に優れながらも凶暴さは改まらず、非を飾り諫言を拒み朝臣を酷しく害したため国内は震え忠良の口は閉ざされた。滅亡の禍が自身の代に止まらず子の代にまで及んだのは不運とは言えない、と結ぶ。
- 賛にいう、淳維(匈奴の遠祖)の末裔、かつての名王の残党。群竜を漠北に嘯かせ、時に乗じて侵掠を働いた。宮殿を築いて氈廬(遊牧の幕舎)を捨てたが、神器(帝位)を弄んだとはいえ、なお凶悪な首長にすぎなかった。