晉書卷百二十九 載記第二十九 北涼 沮渠蒙遜
沮渠蒙遜(?–433年)。臨松の盧水胡出身で、伯父羅仇・麹粥を殺した後涼呂光への復讐を掲げて挙兵、段業を涼州牧に推戴したのちこれを討って自立、北涼を建てた。西涼・南涼・後秦と抗争しつつ最盛期を築いた建国者。
沮渠蒙遜――出自と挙兵の契機
- 沮渠蒙遜は臨松の盧水胡出身。先祖は匈奴の左沮渠であり、その官名を氏とした。史書に通じ天文にも明るく、雄傑な英略と機知を兼ね備え、梁熙・呂光もその器量を認めつつ警戒し、蒙遜自身も常に遊興にふけって才を隠していた。伯父の羅仇・麹粥が呂光に従い河南遠征に参加した際、前軍が大敗。麹粥は「軍敗れ将死せんとする今こそ猜疑を受けやすい、西平へ向かい挙兵すべき」と勧めたが、羅仇は「代々忠孝の家であり、人が我を裏切ろうと我は人を裏切らぬ」と拒み、まもなく二人とも呂光に殺された。
- 葬儀に集った一族万余人の前で蒙遜は呂光の暴虐を訴え、皆が呼応。光の中田護軍馬邃・臨松令井祥を斬って盟を結び、10日で1万余の兵を集め金山に拠った。従兄の男成と共に、呂光配下の建康太守段業を使持節・大都督・龍驤大將軍・涼州牧・建康公に推戴し、呂光の龍飛2年を神璽元年(397年)と改めた。業は蒙遜を張掖太守、男成を輔国將軍とし軍国の要を委ねた。
沮渠蒙遜――段業政権下での功績と軋轢
- 業の命で西郡を攻め、水を引いて城を落とし太守呂純を捕らえた。王徳が晋昌を、孟敏が敦煌を業に降した。業は蒙遜を臨池侯に封じた。呂弘が張掖を去り東走しようとした際、業は追撃を議したが蒙遜は「窮寇を追うべからず」と諫めた。業は聞かず追撃して呂弘に敗れ、蒙遜の助けで難を逃れ「子房の言を用いなかった」と嘆いた。業は臧莫孩を太守として西安城を築かせたが、蒙遜は「莫孩は勇にして無謀、これは塚を築くようなもの」と評し、業は聞かず、まもなく呂纂に敗れた。蒙遜は業に容れられぬことを懼れ、才知を隠して距離を置くようになった。
- 業は涼王を僭称し、蒙遜を尚書左丞、梁中庸を右丞とした。
沮渠蒙遜――呂紹・呂纂軍との対峙
- 呂光の子紹・纂が業討伐に向かうと、業は禿髮烏孤に救援を求め、烏孤は弟の鹿孤と楊軌を派遣した。紹は挟撃を避けようとして南へ軍を移した。業が撃とうとした際、蒙遜は「楊軌には野心があり、紹・纂は死地にあって決戦を望んでいる、戦わなければ安泰、戦えば危うい」と諫め、業は兵を動かさず、紹の側もこれを難しいと見て両軍とも引き上げた。
沮渠蒙遜――段業との対立の深まり
- 業は蒙遜の武勇を恐れて遠ざけようとし、従叔の益生を酒泉太守、蒙遜を臨池太守とした。業の門下侍郎馬権は蒙遜を軽んじて重用され、代わって張掖太守となった。蒙遜はこれを恨み「天下の憂いはただ馬権にあり」と業に讒言し、業は権を殺した。蒙遜は男成に「業は乱を鎮める才がなく讒言を信じる、憚っていた索嗣・馬権も今や死んだ、業を除いて兄を奉じてはどうか」と持ちかけたが、男成は「業は我々が擁立した身、魚と水の関係にあり裏切るのは不祥」として拒んだため取りやめた。蒙遜は不安から西安太守を志願し、業もこれを許した。
- 蒙遜は男成と共に蘭門山で祭祀を行う約束をしつつ、密かに司馬許咸を業に遣り「男成は謀反を企てている、休暇を取って蘭門山祭祀を求めれば証拠」と告げ、その通りになった。業は男成を捕らえ自殺させた。男成は臨終に「実は蒙遜が謀反を企て自分に打ち明けたが兄弟の情で黙していた、自分が死ねば蒙遜は夕方には挙兵するだろう、いっそ自分が死んだと偽り罪状を説けば蒙遜を誘い出し討てる」と進言したが業は従わなかった。蒙遜は男成の死を知り「男成は段公に忠であったのに讒言で殺された」と泣いて挙兵、氐池に着く頃には1万余に膨れ、鎮軍臧莫孩も帰順し羌胡も多く呼応した。侯塢に陣を構えた。
沮渠蒙遜――段業誅殺と自立
- 業はかねて右將軍田昂を疑って幽閉していたが、この時謝罪させて赦し蒙遜討伐に当たらせた。将の王豊孫が田昂を信用すべきでないと諫めたが業は聞かず、田昂は侯塢に至ると騎兵500を率いて蒙遜に帰順した。蒙遜が張掖に迫ると田昂の甥承愛が城門を斬り開いて蒙遜軍を入れ、業の側近はみな逃げ散った。蒙遜が「鎮西(田昂)はどこか」と叫ぶと業は「孤立無援の身、貴殿の門に助けられた、命を乞い嶺南へ逃れて妻子と再会したい」と哀願したが、蒙遜はこれを斬った。
- 段業は京兆の人。史伝に通じ文才もあり、かつて杜進の記室として辺境遠征に従った。儒者らしい実直な人柄だが権謀の才はなく、威令が行き届かず部下が専横し、卜筮・讖記・巫覡・瑞祥占いを信じすぎたため奸佞に誤られたと評される。
沮渠蒙遜――涼州牧僭称と体制整備
- 隆安5年(401年)、梁中庸・房晷・田昂らが蒙遜を使持節・大都督・大將軍・涼州牧・張掖公に推戴、境内を大赦し永安と改元した。従兄伏奴を鎮軍將軍・張掖太守・和平侯、弟の挐を建忠將軍・都谷侯、田昂を鎮南將軍・西郡太守、臧莫孩を輔国將軍、房晷・梁中庸を左右長史、張騭・謝正禮を左右司馬とし、賢才を登用したため文武ともに悦んだ。
沮渠蒙遜――涼州情勢と姚興との駆け引き
- 姚興が姚碩德を派遣して呂隆を姑臧で攻めさせると、蒙遜は李典を興のもとへ送り友好を通じた。酒泉・涼寧の二郡が李玄盛に叛いて降ると、蒙遜は挐と張潜を碩德のもとへ送り迎接を求め東遷を図った。碩德は大いに喜び潜を張掖太守、挐を建康太守とした。潜は蒙遜に東遷を勧めたが、挐は密かに「呂氏はまだ存続し姑臧も落ちていない、碩德の兵糧も尽きよう、故郷を離れて人の支配下に入る必要はない」と諫め、臧莫孩も同意したため、蒙遜は張潜を斬り、賦役を軽減し農耕に専念させる布告を出した。
- 梁中庸は西郡太守だったが李玄盛のもとへ西走、蒙遜は笑って妻子をすべて送り返した。
沮渠蒙遜――養老の令と近隣諸勢力との攻防
- 蒙遜は養老・直言を求める令を発し、賢才の推挙を促した。臧莫孩に山北の異民族を襲わせ大破。姚興が齊難を派遣し呂隆を迎えようとした際、隆が難に蒙遜討伐を勧めたが莫孩がその前軍を破り、難は盟を結んで撤退した。蒙遜の伯父孔篤ら親族が驕奢で百姓を苦しめたため自殺させ、狄洛磐を番禾に襲うも落とせず500余戸を移して撤退。姚興は蒙遜を鎮西大將軍・沙州刺史・西海侯に、禿髮傉檀を車騎將軍・廣武公に任じた。蒙遜は傉檀の官位(上公)が自分(侯)より高いことに不満を示したが、興の使者張構が「傉檀は軽薄で忠誠が定まらぬゆえの懐柔策、蒙遜殿の勲功は既に評価され西海の広大な地を与えられたのだ」と説明し、蒙遜は納得して拝受した。
沮渠蒙遜――軍事的拡大と姑臧遷都(412年)
- 地震・山崩の兆しを太史令劉梁は東征吉兆と解し、張掖城に光の異象が続くと蒙遜は王気の兆しと捉え、禿髮氏の西郡太守楊統を日勒で降し右長史に任じた。張掖太守句呼勒は西涼に出奔したが後に戻り、以前と変わらぬ待遇を受けた。族の成都(羅仇の子)を金山太守、鄯(麹粥の子)を西郡太守とし、北の異民族思盤の3千落を服属させた。永安で連理木が生じ瑞祥として上奏されたが、蒙遜は「地方官の徳による」と謙遜した。
- 禿髮傉檀を討ち窮泉で「遠征で疲弊した敵は油断している」と見て奇襲し大破、姑臧まで進んで夷夏数万戸を降した。傉檀が南の樂都へ逃れた後、姑臧を自立占拠した魏安の焦朗を討って赦した。文武を饗応し、敦煌の張穆を中書侍郎に抜擢して機密を委ねた。弟の挐を護羌校尉・秦州刺史として姑臧に鎮させたが十余日で死去、代わって従祖の益子を同職に任じた。義熙8年(412年)姑臧に遷都、河西王を僭称し玄始と改元、呂光の三河王時代に倣った官制を整え、宮殿・城門・観楼を造営、子の政德を世子・鎮衛大將軍・録尚書事とした。
沮渠蒙遜――対禿髮氏戦の継続と晩年の統治
- 傉檀の来襲を若厚塢で撃退し、湟河太守文支の投降を受けて広武太守・振武侯とし、湟川太守成宜侯も服属させた。西征で卑和・烏啼二虜を大破し2千余落を捕虜とした。新台に眠っていた蒙遜が宦官王懐祖に襲われ足を負傷、妻孟氏がこれを討ち三族を滅ぼした。母車氏の病が篤くなると南景門で百姓に施しをし、自省の詔を発して大赦したが母は間もなく死去した。
- 湟河の兵糧輸送中、乞伏熾磐の広武郡を攻略。糧道の途絶で浩亹へ転じ、熾磐の将乞伏魋尼寅を斬り、さらに王衡・折斐・麹景らを勒姐嶺で破って折斐ら700余人を捕らえた。弟漢平を折衝將軍・湟河太守とした。東晋の益州刺史硃齡石が使者を送った際、蒙遜は舎人黄迅を答礼に遣り、東晋への臣従の意と対胡討伐への協力を上表した。
沮渠蒙遜――湟河陥落と隗仁の忠節
- 熾磐が3万で湟河を襲うと漢平は固守し隗仁が夜襲で数百級を斬った。熾磐が撤退を装った隙に長史焦昶・将軍段景が密かに熾磐に降伏を勧め、再攻撃を受けた漢平は縛られて投降。隗仁は南門楼で3日抵抗したが衆寡敵せず捕らえられ、熾磐は処刑を命じたが段暉の諫言(忠烈の士を厚遇すべき)で助命され熾磐のもとに5年抑留された後、暉の重ねての嘆願で姑臧へ帰還を許された。蒙遜は「そなたは私にとっての蘇武だ」とその手を取り、高昌太守に任じた。政治には威厳と恩恵を兼ね備えたが、財を惜しむ欠点があったと伝わる。
沮渠蒙遜――金山祭祀と天災への対応
- 金山を祀り沮渠廣宗に烏啼虜を襲わせ大勝、苕藋から沮渠成都に卑和虜を討たせ蒙遜自ら3万の中軍で続くと卑和虜は迎え降った。海沿いを西へ進み塩池の西王母寺を祀り、寺にあった『玄石神図』を張穆に賦させ石に刻んで金山経由で帰還した。旱魃に際しては自省の詔を発して大赦し、翌日には大雨が降った。
沮渠蒙遜――劉裕の関中平定への反応と晩年
- 劉裕が姚泓を滅ぼしたと聞いて激怒、諫言した門下校郎劉祥を殺すほどであった。側近には「古の用兵は歳星・鎮星の運行を犯さぬもの、姚氏は舜の末裔で鎮星が軒轅にある今これを滅ぼした劉裕も関中を長くは保てまい」と語った。
- 李士業(李暠の子)に解支澗で敗れた際、前将軍成都が「漢の高祖も彭城で敗れたが最後は大業を成した、いったん退くべき」と諫め、蒙遜は建康に城を築いて帰還した。群臣は綱紀の乱れを上書で指摘(皇統の混乱以来、朝士が憲制に背き公務を怠っている)、蒙遜はこれを容れ、姚艾・房晷に朝堂の制を撰ばせ、10日で百官は粛正された。
沮渠蒙遜――酒泉攻略と晩年の統治(433年没)
- 太史令張衍の「臨澤城西で今年破軍あり」との予言に基づき世子政德を若厚塢に駐屯させた。蒙遜は白岸で「太歳と月建がともに申にあるため西行はできぬ、まず南巡し敵を待ち構えるべき、機は臨機に応じ漏らすな」と語り、浩亹を攻めた際、帳前に蛇がとぐろを巻いたのを見て「まず酒泉を定めよとの天意」と兵器を焼いて撤退。李士業が張掖を攻めようとしていると聞き「これは我が計画通り、我が撤退を知れば進めまい」と述べ、あえて浩亹奪取と黄谷進軍を偽って布告した。士業は喜んで都瀆澗へ進んだところを蒙遜が奇襲し壊城で破り、そのまま酒泉を攻略。百姓は動揺せず軍は略奪しなかった。子の茂虔を酒泉太守とし、士業の旧臣も才に応じて登用した。
- 蒙遜は隆安5年(401年)に州牧を自称、義熙8年(412年)に僭立、宋の受禅から8年後の元嘉10年(433年)に死去、享年66、在位33年。子の茂虔が継いで6年後に北魏に捕らえられ、あわせて39年で滅んだ。
史論
- 史臣は、蒙遜が異民族の辺境から身を起こし辺塞に雄を唱えたこと、呂光の非道と伯父羅仇・麹粥の冤罪への怨みを胸に、段業を推戴して陳勝・呉広の挙兵になぞらえたこと、白澗で兵を挙げて南涼と和を結び、丹嶺への出兵で北方の異民族を服属させたことを述べつつ、利を見て義を忘れ、禍を包み肉親をも滅ぼした苛烈さを兼ね備えており、一隅を制する力量がありながら凶徳を多く備えた人物だったと評す。
- 賛にいう、梁熙・呂光は人物を見抜く達識を持ちながら猜疑し、段業は当代の賢才を忌んだ。蒙遜は遊興に紛れて才を隠し機を図って生き延び、凶心をついに発揮して偽りの功業を成し遂げた。奸智を尽くして一代を駆け抜けたのである。