晉書卷百二十八 載記第二十八 南燕 慕容超

慕容超、字は祖明(?–410年)。慕容徳の兄・慕容納の子で、羌中に生まれ流転の末に長安から広固の徳のもとへ帰り太子に立てられた。徳の死後に即位したが、公孫五楼らの専権を招いて内紛が続き、劉裕の北伐で広固を落とされて捕らえられ、建康で処刑された南燕最後の皇帝。

年表(3件)
  • 義熙元年405年父徳の死を受けて即位を僭称し太上と改元した
  • 義熙3年407年亡父を穆皇帝、母段氏を皇太后、妻呼延氏を皇后と定めた
  • 義熙6年410年劉裕軍に広固を攻略され捕らえられ、建康で斬られた(26歳、在位6年)

慕容超――流転の出自

  • 慕容超、字は祖明。慕容德の兄・北海王慕容納の子。北魏(苻堅)が鄴を破った後、納は廣武太守を数年務め辞任し張掖に居した。德の南征時、納は形見の金刀を残して去った。慕容垂が山東で挙兵すると苻昌が納と德の諸子を捕らえて皆誅殺したが、納の母公孫氏は老齢のため助命され、納の妻段氏は身重で判断がつかず郡獄に囚われた。獄掾の呼延平(德の旧吏で、かつて死罪を德に免じられた恩がある)が公孫氏と段氏を連れ羌中へ逃れ、そこで超が生まれた。
  • 超が10歳のとき公孫氏は没し、臨終に金刀を託し「天下が治まって東へ帰れたら、この刀を叔父(德)に返しなさい」と遺言した。呼延平は超母子を伴い呂光のもとへ、さらに呂隆が姚興に降ると涼州の人々と共に長安へ移った。母は呼延氏の恩に報いるため超を呼延平の娘に娶わせた。超は諸叔父が東方にいることから姚氏に警戒され、狂人を装い物乞いをして秦人に軽んじられたが、姚紹だけがその器量を見抜き、姚興に爵位で拘束するよう勧めた。興が召し出して語ったが、超は徹底して自らを韜晦し、興は大いに見下し「'美しい皮に愚かな骨は包まれぬ'とは嘘だな」と姚紹に言った。これにより超は自由に行き来できるようになった。德が使者を送って迎えると、超は母妻に告げずに帰り、広固に至って金刀を差し出し祖母の遺言を伝え、德は超を抱いて号泣した。

慕容超――太子への道

  • 超は身長8尺、腰回り9囲、容姿風采に優れていた。德はこれを厚遇し、初めて「超」と名付け北海王に封じ、侍中・驃騎大將軍・司隷校尉として開府させ属官を置いた。德には実子がなく超を後継に考え、萬春門内に邸を建てて朝夕見守った。超も德の意を深く理解し、内では歓心を尽くし外では士に謙って交わったため、内外の称賛を得た。まもなく皇太子に立てられた。

慕容超――即位と権臣公孫五楼の台頭

  • 德の死後、義熙元年(405年)に即位を僭称し大赦、太上と改元。德の妻段氏を皇太后と尊んだ。慕容鍾を都督中外諸軍事・録尚書事、慕容法を征南將軍・都督徐兗揚南兗四州諸軍事、慕容鎮を開府儀同三司・尚書令、封孚を太尉、鞠仲を司空、潘聰を左光禄大夫、封嵩を尚書左僕射とした。のち鍾を青州牧、段宏を徐州刺史、公孫五楼を武衛將軍・領屯騎校尉として内政に参与させた。
  • 封孚は「重要な人材は都から遠ざけるべきでない、鍾は国の宗臣、宏は外戚の重鎮、内で百官を補佐させるべき」と諫めたが、即位したばかりの超は権勢を恐れて公孫五楼に諮り、専権を望む五楼の讒言でこの提案は退けられた。鍾と宏は不満を漏らし「黄犬の皮もいずれ狐の裘の継ぎ当てにされる」と語り合い、五楼との溝は深まった。

慕容超――慕容法・慕容鍾らの謀反

  • かつて超が長安から梁父に至った際、兗州にいた慕容法の長史悦寿は超の器量を称賛したが、法は成方遂が衛太子を詐称した故事を引いて疑い、超はこれを恨みに思い、法もまた怒って超を外館に留め置いたため両者は不和となった。德の死に際し法が弔問に赴かなかったため超が咎めると、法は禍を恐れ慕容鍾・段宏らと共謀を企てた。超が討伐を命じると鍾は病と称して応じず、超はその一党(侍中慕容統・右衛慕容根・散騎常侍段封)を誅殺し、僕射封嵩を東門外で車裂きにした。西中郎將封融は魏へ逃れた。

慕容超――内乱の平定

  • 超は慕容鎮らに青州を、慕容昱らに徐州を、慕容凝・韓範に梁父を攻めさせた。昱らは莒城を落とし、徐州刺史段宏は魏へ逃れた。封融は群盗を集め石塞城を襲い鎮西大將軍余郁を殺したため青州は震撼した。慕容凝は韓範暗殺と広固急襲を謀ったが露見し、範に攻められて梁父へ逃走。範はその軍勢を吸収して梁父を陥落させ、凝は姚興のもとへ、慕容法は魏へ逃れた。慕容鎮は青州を平定、慕容鍾は妻子を殺し地下道を掘って脱出、単騎で姚興のもとへ奔った。

慕容超――肉刑復活論と法制改革の頓挫

  • 超は政務を顧みず狩猟遊興を好み、百姓はこれを苦しんだ。僕射韓𧨳が痛切に諫めたが容れられなかった。超は肉刑の復活と九品による人材登用制度の見直しを議し、境内に詔を下した。詔では、永康以来の混乱で律令法憲が失われた現状を憂え、罪の重い不忠不孝の者には烹刑・轘裂の刑を科すべきこと、肉刑は先聖の経であり漢文帝の廃止はかえって刑の均衡を崩したこと、周の貢士制と魏の九品官人法のいずれが優れるかを議論するよう命じた。しかし群臣の意見が分かれたため実施は見送られた。

慕容超――母妻の長安拘留と称藩の屈辱

  • 超の母と妻は先に長安にいたが姚興に抑留され、興は超に藩臣として臣従を求め、太楽の伎人たちを送るか、それが叶わなければ呉の捕虜千人を送るよう要求した。超が群臣に議させると、左僕射段暉は「統べる者としての尊厳を私情で下げるべきでない、太楽の伎人の代わりに呉の捕虜を掠め取って与えるべき」と主張したが、尚書張華は「呉の辺境を侵せば新たな怨みを生む、陛下の秦への孝心を示すため、一時的にへりくだり号を下げて修好すべき」と説き、超はこれを容れて韓範を興のもとへ遣った。
  • 長安で韓範は興と小国・大国の礼の在り方を論じ、興はついに旧知の礼をもって範を遇し、超の母妻の返還を約したが太楽の伎人の要求は変わらなかった。姚興のもとに逃れていた慕容凝が「先に伎人を送らせてから母を返すべき」と献策し、興の態度が硬化。結局超は張華・宗正元を長安へ送り太楽伎120人を献上、興は大いに喜んだ。宴席で興の黄門侍郎尹雅が燕の滅亡を暗示する皮肉を述べると、張華は老子の「将に取らんとすればまず与う」を引いて応酬し、興は一時怒ったが最終的に超の母妻を帰した。

慕容超――祭祀の異変と朝政の乱れ

  • 義熙3年(407年)、亡父を穆皇帝と追尊し、母段氏を皇太后、妻呼延氏を皇后に立てた。南郊での祭祀の際、赤い鼠のような異獣の出現や、突然の暴風・天地の昏黒・行宮の破損など不祥事が相次いだ。超が太史令成公綏に問うと、「奸臣を信用し賢良を誅戮し賦斂を重くしていることが原因」と答えた。超は恐れて大赦し公孫五楼らを譴責したが、まもなく元通りに用いた。この年、広固で地震が起き、天斉の水が湧き、井戸水が溢れ、女水が涸れ、黄河と済水は凍結したが澠水だけは凍らなかった。

慕容超――宿豫侵攻と劉裕の南征開始

  • 元日の朝賀で音楽の編成が不完全なことを嘆き、伎人を姚興に送ったことを悔いた超は東晋への侵攻を議した。領軍韓𧨳は「南隣と怨みを結ぶべきでない」と諫めたが聞かず、斛谷提・公孫帰らを送って宿豫を陥落させ、陽平太守劉千載・済陰太守徐阮を捕らえ、掠奪した男女2500人を太楽に配して伎楽を習わせた。
  • この間、公孫五楼が侍中・尚書として朝政を専断し、兄の帰は冠軍將軍・常山公、叔父の頽は武衛將軍・興樂公となり、一族が政権を固めた。宿豫の功で斛谷提らを郡公・県公に封じようとした際、慕容鎮が「公孫帰は戦禍を招いた張本人、これを賞するのは道理に合わない」と諫めたが超は怒って答えず、以後百官は口をつぐんだ。

慕容超――劉裕の北伐と大峴の防備放棄

  • さらに済南を侵し太守趙元を捕らえたため、劉裕が討伐に乗り出した。超は群臣を集めて対策を議し、公孫五楼は「大峴の険を扼して敵を入れず、精鋭で糧道を絶ち段暉の兵で挟撃するのが上策、堅壁清野で持久するのが中策、峴を越えさせて城外で迎撃するのは下策」と説いた。だが超は自軍の強大さを恃み、あえて敵を峴内へ誘い込み平地で騎兵をもって蹂躙する策を選んだ。賀賴盧は諫めたが聞かれず、慕容鎮も出峴迎撃を進言したが容れられなかった。鎮は韓𧨳に「陛下は劉璋のようなものだ、今年国は滅び自分も死ぬだろう」と漏らしたが超に知られて投獄された。超は莒城・梁父の二戍を固め城隍を修め兵馬を整えて待った。

慕容超――臨朐の敗戦と広固籠城

  • その夏、東晋軍が東莞に至ると、超は段暉・賀賴盧ら6将に歩騎5万を率いさせ臨朐に拠らせた。晋軍が峴を越えると超は自ら4万の兵を率いて暉らに合流、公孫五楼に「川の水源を先に押さえて晋軍に水を失わせよ」と指示したが、劉裕の先鋒孟龍符が先に水源に至り五楼は敗れた。劉裕の将檀韶が臨朐を攻略すると超は単騎で段暉のもとへ逃れたが暉軍もまた敗れ、裕軍に斬られた。超は広固へ逃げ帰り、外郭の民を小城へ移して姚興へ張綱を送り援軍を求めた。慕容鎮を赦して録尚書事・都督中外諸軍事とし、群臣に「覆水盆に返らず」と悔いを述べた。鎮は「金帛・宮女を放出して決戦を挑むべき」と進言、司徒慕容惠は「重臣を送らねば秦は大軍を出さない」として韓範を推し、範と王蒲を姚興のもとへ乞師に送った。

慕容超――広固陥落と処刑

  • ほどなく劉裕軍が広固を四方から包囲した。「張綱を得れば攻城具を作らせられる」との情報が晋軍に伝わり、ちょうど長安から帰還した張綱が劉裕に投降。裕は綱に城壁を巡って「赫連勃勃が秦軍を大破し援軍は来ない」と叫ばせ、超は弩で射させて退けた。右僕射張華と中丞封愷が捕らえられ、裕は二人に降伏を勧める書を書かせたが、超は大峴を国境とする藩臣の地位と馬千頭の献上を条件に和睦を求め、裕はこれを拒んだ。長安から戻った尚書張俊が裕に降り「韓範を誘えば燕人は絶望する」と献策、裕は範を散騎常侍に任じて招いた。姚興は将姚強を範に随行させ洛陽で姚紹の軍と合流させ援軍を送ったが、赫連勃勃が秦軍を大破したため興は強を呼び戻した。範は「天が燕を滅ぼすのか」と嘆き、裕の書を受けてついに降伏した。裕が範に城を巡らせると人心は動揺し士気は崩れた。超は敗北が目前と悟りつつも、弟の韓𧨳が忠義を尽くしていたため範の家族を罰さなかった。この年、東莱で血の雨が降り、広固の城門で夜に鬼哭が聞こえたという。
  • 翌年正月、超は天門に登り城上で群臣を朝見し馬を殺して将士を饗した。寵姫魏夫人が同行し晋軍の盛大さを見て手を取り合って泣くと、韓𧨳が「今は奮い立つべき時に女子と泣くとは」と諫め、超は涙を拭って詫びた。尚書令董鋭が投降を勧めると超は怒って投獄した。賀賴盧・公孫五楼は地下道から出撃したが不利に終わった。河間の玄文が裕に、石季龍の曹嶷攻めや慕容恪の段龕包囲の故事を引いて五龍口を塞ぐよう進言し、裕はこれに従った。城中では脚気を患う者が続出。超は輦に乗って城に登り、尚書悅寿は「天運が尽きたなら堯舜の禅譲に倣い宗廟を全うすべき」と降伏を勧めたが、超は「興亡は天命、剣を執って死のうとも璧を銜えて生を求めはしない」と拒んだ。裕は張綱に衝車や飛楼・懸梯などの攻城兵器を作らせ、超は怒って張綱の母を八つ裂きにした。城中から投降者が相次ぎ、裕が四方から攻め立てると悅寿が門を開いて王師を迎え入れた。超は数十騎で脱出を図るも捕らえられ、裕に降伏しなかった罪を数えられても顔色一つ変えず、ただ母を劉敬宣に託しただけだった。建康の市で斬られた。時に26歳、在位6年。
  • 德が隆安4年(400年)に即位してから超に至る二代、都合11年で、義熙6年(410年)に滅んだ。

慕容鍾――謀反と姚興への亡命

  • 慕容鍾、字は道明。德の従弟。若くして見識と器量があり、喜怒を面に出さず、機知に優れ弁舌も明晰であった。危難に臨んでも智勇兼備で数々の奇策を献じ、德はその多くを採用したため、政務の大小を問わず委ねられ、佐命の元勲となった。のち公孫五楼が権勢を握ろうとして鍾を疎ましく思い、超に讒言して誅殺させようとしたため、鍾は謀反を企てた。事が発覚して姚興のもとへ逃れ、興は鍾を始平太守・帰義侯とした。

封孚――剛直の忠臣

  • 封孚、字は処道。渤海蓚の人。祖父悛は振威將軍、父放は慕容氏の代に吏部尚書を務めた。孚は幼くして聡明で温厚、士君子と称された。慕容寶の代に吏部尚書へ昇進、蘭汗の簒奪の際は南へ辟閭渾のもとへ逃れ、渾の推挙で渤海太守となった。德が莒城に至ると孚は投降し、德は「青州を平定したことより、そなたを得たことが嬉しい」と語った。孚は常に朝政の機密に参与し、地位の重さに反して謙虚に人の意見を聞き、大臣としての度量を備えていた。
  • 超が即位すると政治は寵臣に牛耳られ旧来の制度が乱れたため、孚はたびたび匡正を諫めたが超は聞き入れなかった。のち超が「朕は歴代の帝王の誰に比せられるか」と問うと、孚は「桀・紂の類」と答え、超は大いに恥じ怒ったが、孚は顔色一つ変えず悠然と退出した。司空鞠仲が「天子への言葉としては厳しすぎる、謝罪すべき」と勧めたが、孚は「行年70、墓木すでに拱(ひとかかえ)に達している、ただ死に場所を求めるのみ」と答え、ついに謝らなかった。超の3年目に自邸で没した。享年71。文章の多くが後世に伝わった。

史論

  • 史臣は、慕容德が叔父の身でありながら鄴の重責を担い、国が危機にあった時には節義を示さず、君主(慕容寶)が存命のうちに位を奪ったことを人の道に外れると批判しつつ、その傑出した資質と縦横の遠略を認め、分裂の時勢に乗じて全斉を保有し秦・魏と覇を争い、儒学を尊び直言を励みとした治世には見るべきものがあったと総括する。
  • 慕容超については、すでに完成した基盤を継ぎながら政治を顧みず遊猟を好み、忠良を退けて讒佞を進め、外戚勲臣を離反させ、先代の事業をたちまち衰えさせて、宿豫侵攻で禍を招き大峴の防備を怠って敵を招き入れ、ついに君臣ともに捕虜となり宗廟を廃墟にしたことは、決して不運ではなく自らの謀の誤りによるものだと評す。
  • 賛にいう、德は実は奸雄でありながら敗勢を転じて功とし、一時は青州の地を保ち僭号の名を広めた。超は偽りの帝位を継いで国の歩みを乱し、朝廷は良策を失い、宮廷は涙に暮れた。