晉書卷百二十七 載記第二十七 南燕 慕容德(字玄明)

慕容德、字は玄明(?–405年)。慕容皝の末子で、前燕・後燕で要職を歴任し兄慕容垂の信任篤い将帥であった。北魏の圧迫を受けて鄴を放棄し、滑台を経て青斉の広固に拠点を移し、皇帝を称して南燕を建国した。甥の慕容超を太子に立てて間もなく死去した。

年表(5件)

慕容德――出自と前燕・後燕での経歴

  • 慕容德、字は玄明。慕容皝の末子。母公孫氏が日輪を懐に飲む夢を見て産んだと伝わる。20歳未満で身長8尺2寸、額に瑞相があったという。博学で慎み深く多才。慕容俊の代に梁公に封じられ幽州刺史・左衛將軍を歴任、慕容暐の代には范陽王に改封され魏尹・散騎常侍を加えられた。苻堅配下の苻雙が陝で反乱した際は乗じて苻堅討伐を進言したが用いられなかった。兄慕容垂に評価され軍国の大謀を語り合う仲であった。
  • 桓温との枋頭の戦い(369年ごろ)では垂と共に晋軍を破る功を挙げたが、垂が苻堅のもとへ亡命した際に連座して免職。後に戦に敗れ長安へ移され、苻堅の下で張掖太守を数年務め辞任した。

慕容德――苻堅への諫言と淝水後の去就

  • 苻堅が東晋へ出兵した際(淝水の戦い、383年)、德は奮威將軍を拝命。苻堅が敗れ張夫人と離れ離れになった際、德は「不祥の女を戦場に近づけるべきでない」と諫めたが聞き入れられず、自ら馬を馳せて先んじた。滎陽まで戻ると、句踐の会稽籠城の故事を引いて社稷回復の好機と説いたが、これも容れられず、結局兄垂に従って鄴へ向かった。

慕容德――後燕での要職と鄴城の委任

  • 慕容垂が燕王を称すると、德は車騎大將軍・范陽王として中枢を補佐した。のち司徒に昇進。慕容永が長子に拠って十万の兵を擁していた際、群臣が討伐に躊躇う中、德は「先代の恩義があってこそ燕・趙の士は燕臣たることを楽しんでいる、今こそ討つべき」と進言し、垂はこれに従い慕容永を滅ぼした。垂は臨終に際し子の慕容寶へ鄴城を德に委ねるよう命じ、寶は即位後、德を使持節・都督冀兗青徐荊豫六州諸軍事・特進・車騎大將軍・冀州牧・領南蠻校尉に任じて鄴に鎮させ、南方の統括を一任した。

慕容德――鄴城の防衛(北魏との攻防)

  • 北魏の将拓跋章が鄴を攻めると、德は慕容青らに夜襲させ撃退した。魏軍が新城に退いた際、青が追撃を求めたが、別駕韓𧨳は「魏軍は懸軍深入で野戦を望んでいる、追撃すれば四つの不利がある」と諫め、德はこれに従い軍を戻させた。
  • 魏がさらに賀賴盧を送り章と共に鄴を囲むと、德は劉藻を姚興に遣わし救援と母兄の安否を問うたが援軍は来ず、将士は動揺した。德は自ら戦士を饗応して人心をつなぎとめ、やがて魏軍が内輪もめで撤退。魏将丁建が投降して魏軍疲弊の情報を伝えたため、德は追撃してこれを破り、人心が定まった。

慕容德――即位待望論と丞相就任

  • 北魏軍が中山に入り慕容寶が薊へ逃れ、慕容詳が僭号すると、姚興のもとから劉藻が戻り、玉璽と「德受天命」の讖文を届けた。加えて德の即位を示唆する童謡も広まり、群臣は寶の存亡不明を理由に德への即位を勧めたが、慕容達が寶の存命を伝えたため議は中止された。まもなく寶は德を丞相・領冀州牧に任じ、南方の統治を全権委任した。

慕容德――滑台への南遷(398年)

  • 甥の慕容麟が「中山陥落後は魏が鄴を狙う、糧食があっても大城は守り難い」として滑台への南遷を献策、慕容和も同様に勧めたため、德はこれを容れた。隆安2年(398年)、戸4万・車2万7千乗を率いて鄴を発ち滑台へ向かうが、暴風で船が沈み魏軍が迫る中、その夜黄河が凍結して渡河、翌朝魏軍到着時には氷が解けたため「神助」とされ、渡河地点は天橋津と改称された。滑台到着後、景星の出現や漳水での白玉出土(璽状)もあり、燕元の元年を称し百官を置いた(慕容麟を司空領尚書令、慕容法を中軍將軍、慕輿拔を尚書左僕射、丁通を尚書右僕射とするなど)。慕容麟は以前の瑞祥(麒麟出現)を自らの瑞と過信し謀反を企てたが発覚し賜死。同年夏、魏将賀賴盧が帰順した。

慕容德――慕容寶の来奔と即位への逡巡

  • 慕容寶が龍城から南下し黎陽に至り、慕容鍾(かつて德の即位を勧めた人物)を召そうとしたが、鍾はこれを嫌い使者趙思を投獄し德に急報した。德は群臣に「嗣帝が戻れば政を返上する」と述べたが、黄門侍郎張華は「争奪の世に雄才なくして立たず」と即位継続を進言。德は「古人の逆取順守の道に未だ及ばぬゆえ迷う」と応じつつ、慕輿護を寶のもとへ遣り虚実を確かめさせた。実際には寶は德の摂位を知り恐れて既に北へ去っていた。慕輿護は空しく趙思を連れ帰った。德は趙思を厚遇しようとしたが、思は関羽の故事を引いて拒み、さらに德を周室・七国の乱の故事に喩えて痛烈に非難したため、德は怒って思を斬った。

慕容德――晋軍の撃退と苻廣の乱

  • 東晋の南陽太守閭丘羨・寧朔將軍鄧啓方が2万の兵で管城に迫った。德は慕容法・慕容和に迎撃させ晋軍を破ったが、法が窮追しなかったことに怒り、撫軍司馬靳瑰を斬った。
  • 苻登が姚興に滅ぼされた後、弟の苻廣が部落を率いて德に降り冠軍將軍に任じられ乞活堡に置かれていたが、熒惑(火星)が東井に留まる兆しに乗じて秦王を自称し反乱、慕容鍾を破った。当時德はまだ滑台に都したばかりで領土も小さく兵も数万に過ぎなかったため、鍾の敗戦で寝返る者が続出。德は慕容和に滑台の留守を任せ、自ら討伐に赴き苻廣を斬った。

慕容德――滑台失陥と広固への南遷方針

  • 德の南征中、慕容和の長史李辯は和に慕容寶を迎え入れるよう勧めたが和は従わず、辯は発覚を恐れて晋軍を管城に招き入れ、德の隙をついて内乱を起こそうとした。德が出征しなかったため辯は不安を募らせ、再び和に反乱を勧めたが拒まれ、辯は和を殺して滑台を魏に降した。将士の家族は城内に残されていたが、韓範の「魏がすでに入城した以上は客主の勢が逆転している、まず一方に拠って基盤を固めるべき」との諫言で德は攻撃を控えた。右衛將軍慕容雲が李辯を斬り、将士の家族2万余人を率いて脱出し、三軍は歓喜した。
  • 徳が今後の拠点を諮ると、張華は彭城(楚の旧都)を、慕容鍾・慕輿護・封逞・韓𧨳らは滑台への固執を主張したが、潘聰は「滑台は四通八達で帝王の居に非ず、青斉こそ沃野で山海の険あり用武の地」と広固を強く推した。德は決めかね、占候の僧郎公に問うたところ潘聰の策に同調し、「まず魯地を定め琅邪を巡撫し、秋を待って斉を包囲すべき」と説いた。德は大いに喜んで南進、兗州北部の諸県はことごとく降り、軍は略奪せず民は安堵した。

慕容德――青斉平定と広固入城

  • 德は齊郡太守辟閭渾に帰順を勧めたが従わず、慕容鍾に討たせた。德自身は琅邪に進出、徐兗の民10万余が帰順し4万余人が出迎えた。莒城を攻めると守将任安は棄城逃亡し、潘聰を莒城の守将とした。慕容鍾は青州諸郡へ檄文を発し、辟閭渾の父蔚がかつて段龕に加担して誅殺されたにもかかわらず渾もまた叛乱を続け江南に依存していると弾劾、圧倒的兵力(12万と称する)を誇示して降伏を促した。渾は德軍の接近を知り8千余家を率いて広固に入ったが、諸郡はすべて德に降伏。渾は妻子を連れて魏へ逃れようとしたが、德は射聲校尉劉綱を遣わし莒城で斬った。渾の参謀張瑛はかつて渾のために不遜な檄文を書いていたが、捕らえられた際、韓信に対する蒯通の故事を引いて堂々と弁明。德は当初これを評価したが後に殺した。德はこうして広固に入城した。

慕容德――皇帝即位(400年)

  • 義熙元年に先立つ4年目、南郊で皇帝位を僭称、大赦し建平と改元、行廟を設けて即位を告げた。慕容鍾を司徒、慕輿拔を司空、封孚を左僕射、慕輿護を右僕射に進めた。度支尚書封愷・中書侍郎封逞を派遣して風俗を視察させ、各地で将士を饗応。妻段氏を皇后とした。学官を建て、公卿以下の子弟と二品士門から200人を選んで太学生とした。

慕容德――治世の逸話(諫言を喜ぶ君主)

  • 宴席で德が「自分は古の名君の誰に比すべきか」と問うと、青州刺史鞠仲は「少康・光武の類」と阿った。德は帛千匹を賜ったが、鞠仲が過分だと辞退すると、德は「そなたが実を飾って答えたゆえ、虚言に虚賞を返したまで」と応じた。韓範が「天子に戯言なく忠臣に妄りな受け答えなし、これは君臣ともに失ったこと」と諫めると、德は大いに悦び絹50匹を賜った。以後、直言が競って進むようになった。

慕容德――長安の母兄への配慮

  • 德の母と兄はまだ長安にあり、平原の杜弘を遣わして安否を尋ねさせた。弘は「太后の様子を確かめられなければ張掖まで赴いて死をもって務めを果たす」と述べ、あわせて自らの父の官職を求めた。張華は「出発前から禄を求めるのは私欲だ」と諫めたが、德は「外見は私欲でも内実は忠孝」として弘の父を平原令とした。弘は張掖で盗賊に殺され、德はこれを悼み妻子を厚く扶助した。

慕容德――斉地巡幸と文化事業

  • 翌年、德は斉城に至り営丘に登り晏嬰の墓を望み、大夫は城に近く葬らないという礼を引いて疑問を呈した。青州秀才晏謨は「晏嬰は倹約を旨として世に矯めたため、生前も墓所も市街近くにあったのだろう」と答えた。德はこれに従い漢の城陽景王廟に至り申池で古老を饗し、社首山に登り鼎足を望み、牛山を眺めて「古より死なぬ者なし」と嘆じ、世を終える覚悟を見せた。晏謨に斉地の地理・先賢の事績を尋ねると詳細に答え地図まで描いたため、德は大いに褒めて尚書郎に任じた。商山に製鉄所を、烏常沢に塩官を設けて軍国の資とした。

慕容德――慕容達の反乱

  • 德の旧吏趙融が長安から来訪し、母と兄の死の知らせをもたらした。德は号泣して血を吐き病に伏した。この隙に司隸校尉慕容達が反乱を起こし、皇璆に端門を攻めさせ、殿中師侯赤眉がこれに呼応して開門した。中黄門遜進が德を助けて城壁を越えさせ隠した。段宏らが変を聞いて兵を四門に配し、德は宮中に戻って赤眉らを誅殺、達は魏へ逃れた。慕容法は北魏軍と濟北の摽榆谷で戦い、魏軍を破った。

慕容德――戸籍整理と軍国の充実

  • 尚書韓𧨳が上疏し、関中・楊越がなお賊の手にあり四祖の陵墓も荒廃している現状を憂え、養兵積糧と国境の防備強化を訴えるとともに、百姓が戸籍を偽って課役を逃れている実情を指摘し、隠れた戸口を洗い出して国力を高めるべきと建言した。德はこれを納れ、慕容鎮に辺境の警戒と逃亡防止を命じ、韓𧨳を使持節・散騎常侍・行台尚書として郡県を巡らせ、隠れていた5万8千戸を摘発させた。𧨳は公正廉直で野宿しながらも民を煩わせなかった。

慕容德――学問奨励と斉魯先賢への追慕

  • 德は諸生を集めて自ら策試に臨み、宴の席で尚書魯邃に「斉魯にはかつて接子・慎到・淳于髠・鄒衍・田駢ら多くの賢人がいたが、今は荒草と朽ちた墓が残るのみ」と嘆いた。邃は武王が比干の墓を封じ漢の高祖が信陵君を祀った故事を引き、陛下の恩沢もまた泉下に及ぶだろうと慰めた。

慕容德――妖賊王始の乱

  • 太山で妖賊王始が徒党を集め太平皇帝を自称し、父を太上皇、兄弟を征東・征西將軍に擬した。慕容鎮がこれを討って捕らえ、市で斬った。刑に臨み父兄弟の所在を問われた始は「太上皇帝は難を逃れ、征東・征西は乱兵に殺された、朕一人が頼るものもない」と答え、妻に叱責されても「古より滅びぬ家も国もない」と嘯き、処刑の際も帝号を改めなかった。德はこれを聞いて笑った。

慕容德――桓玄討伐計画と閲兵

  • 東晋で桓玄が簒奪を図り自派以外を粛清したため、冀州刺史劉軌・司馬休之・劉敬宣・高雅之・張誕らが德のもとへ亡命した。中書侍郎韓範は「桓玄の逆篡は董卓を超える暴虐、神怒人怨のこの機を逃すべきでない」と南征を上疏し、德も少康の故事を引いて意欲を示したが、群臣は桓玄がまだ勢いを得たばかりであるとして時期尚早と判断し中止となった。代わりに城西で大規模な閲兵(歩兵37万・車1万7千乗・鉄騎5万3千)を行い、德は劉軌・高雅之らを励ました。まもなく桓玄敗死の報が入り、德は慕容鎮を前鋒、慕容鍾を大都督として出征準備を進めたが、自身が病に倒れ計画は中止された。

慕容德――慕容超の立太子と死去(405年)

  • かつて德は兄の子である慕容超を長安から呼び寄せていたが、ようやくこの頃到着した。德は父の霊夢(「お前には子がない、なぜ早く超を太子に立てぬのか」)を見て、目覚めて妻に「先帝の託宣からすると私はもう長くない」と語り、超を皇太子に立てる詔を下し大赦を行った。その月のうちに德は死去した(義熙元年・405年、享年70)。夜のうちに十余の棺を四門から分けて運び出し密かに山谷に葬ったため、実際の遺骸の所在は分からなくなった。在位5年、偽諡は献武皇帝。