晉書卷百二十五 載記第二十五 馮跋

出自と北燕建国(407年ごろ)

  • 馮跋、字は文起。長楽信都の人。祖父は永嘉の乱で上党に避難、父馮安は慕容永に仕えた武人。跋は寛仁で酒に強く、家業に励む堅実な性格だったという。慕容寶の代に中衛将軍となった。
  • 弟の馮素弗が金龍を得た瑞祥をめぐり慕容熙の不興を買い、跋兄弟は迫害を恐れて山沢に隠れた。慕容熙の暴政に耐えかね、馮跋兄弟と従兄馮萬泥ら22人が同盟して挙兵、熙を討って高雲(慕容雲)を主に擁立した。
  • 高雲が幸臣離班・桃仁に殺害されると、馮跋は反撃してこれを討ち、群臣に推されて即位。太元20年(原文のまま。文脈上は義熙年間にあたるが底本表記に従う)、昌黎で天王を自称し(太平と改元)、国号は燕を継承した。祖父・父を追尊し、弟馮素弗・馮弘、従兄馮萬泥らを要職に任じた。

統治と内紛の鎮圧

  • 高雲を礼をもって葬るなど旧主への配慮を示す一方、萬泥・乳陳(従兄の子)が功に見合う待遇を得られず不満を募らせ反乱。馮弘が討伐にあたり策略で撃破、両名を誅殺した。
  • 賦役の軽減、農桑の奨励、薄葬の推奨など寛政を志向し、地震・異象のたびに民の負担を減じる詔を出した。柔然(蝚蠕)や庫莫奚との通交・通婚も行い、河間の褚匡の献策で旧郷の一族を招き寄せた。北魏の使者を礼遇せず緊張が生じ、魏軍の侵攻を退けたこともあった。
  • 尚書令孫護をめぐる不吉な兆し(犬豕交わる怪異)や、孫護一族・遼東太守務銀提の粛清など、晩年は猜疑による内部粛清も見られた。太学を興し人材養成にも努めた。
  • 元熙元年(419年)以降、東晋から劉宋への易姓を経て、元嘉7年(430年)死去。在位(太元20年即位からとして)11年。弟馮弘が跋の子馮翼を殺して自立したが、後に北魏に討たれ高句麗へ亡命、2年後に高句麗により殺害された。馮跋の即位から馮弘の代まで2代28年続いた。

馮素弗――補佐と人物評

  • 馮素弗、跋のすぐ下の弟。豪放で任侠を好み、当初は評価されなかったが、南宮令成藻らに才を見出された。慕容熙の代に侍御郎などを務め、跋の挙兵・即位を実質的に主導した人物とされる。
  • 宰輔となってからは謙虚倹約に努め、身分の低い者にも礼を尽くし、旧知の恩讐にこだわらず人材登用(秦・趙の勲臣の子孫の登用など)に努めた。跋の在位7年目に死去し、跋は深く悲しみ厚く弔った。

史論

  • 史臣は、五胡の跋扈により中原が混乱する中、馮跋が中原出身でありながら鮮卑の混乱に乗じて名を盗るに至った経緯を評す。慕容氏の没落に助けられて衆望を得たものの、妖しい祭祀を信じ諫言を退けるなど器量に限界があったとしつつ、それでも民を撫育し20余年にわたり国を保ったのは天意によるものかと結ぶ。
  • 賛にいわく、乞伏國仁は驍武、乞伏乾歸は勇悍、乞伏熾磐は機を見て果断であったが、これら夷狄も深謀を備えていた。馮跋は凡庸な才ながら時流に乗じて簒奪を重ね、いずれも中原にとって多難の因であった、と総括する。