即位と隴右の平定(388年ごろ)
- 乞伏乾歸、國仁の弟。國仁の子公府がまだ幼かったため群臣に推されて大都督・大将軍・大単于・河南王を称した(太初と改元)。金城に遷都。
- 苻登から金城王の号を受け、休官の諸部族や吐谷渾の大人視連らの服属を受けるなど勢力を拡大。隴西太守越質詰歸の叛服を経て、呂光の弟呂寶の侵攻を撃退(寶は敗死)。苻登からさらに梁王に進封されるが、登が姚興に敗死すると自立路線を強めた。
- 氐王楊定の侵攻を撃退・討滅し隴西・巴西を制圧。太元17年(392年)長子乞伏熾磐を尚書令に任じるなど官制を整備。天水の薑乳との戦いでは将軍乞伏益州の油断で一時敗れたが乾歸は責任を自らに帰し将を赦した。
前秦滅亡後の攻防と姚興への服属
- 呂光の攻撃に対しては一時称藩・人質を送って和議を結んだが、後に翻意。隆安元年(397年)呂纂配下の呂延を反間の計で破り討ち取った。禿髮烏孤との和親、吐谷渾攻略なども進めたが、姚興配下の姚碩德の大軍に敗れ(金城陥落)、乾歸は禿髮利鹿孤のもとへ亡命した。
- 利鹿孤との関係が悪化すると、子の熾磐兄弟を人質に出して姚興に投降。姚興は乾歸を河州刺史などに任じ苑川に戻らせた。子の熾磐は長安を脱して姚興配下で力を蓄え、義熙3年(407年)乾歸は秦王を自称し独立(更始と改元)。以後、姚興配下の諸郡を攻略し勢力を回復、称藩しつつも実質的自立を保った。
- 熾磐と共に禿髮傉檀・姚興配下・吐谷渾方面へ攻勢を続けたが、兄の子公府に弑殺され、公府の子ともども討伐された。枹罕に葬られ、偽諡は武元王。在位24年。