晉書卷百二十四 載記第二十四 慕容寶

出自と即位(396年)

  • 慕容寶、字は道祐。慕容垂の第四子。若い頃は軽薄で人に取り入るのを好んだが、太子となってからは学問に励み評判を得た。
  • 垂の死の年(太元21年=396年)に即位(永康と改元)。垂の遺命に従い戸口整理などを進めたが、法が厳しく人心は離れ、乱を望む者が多かったという。
  • 庶子の清河公慕容会は才略に優れ垂に高く評価されていたが、寶は末子の濮陽公策を溺愛し、長子の慕容盛の讒言もあって策を太子に立てた(会・盛は王に進爵)。この処遇の不満が後の会の反乱の遠因となった。

北魏との攻防と参合の禍

  • 北魏の侵攻に対し中山防衛の評定が繰り返されるが、慕容農が敗退するなど戦況は悪化。慕容寶自ら12万の歩兵・3万7千の騎兵で出陣するも柏肆で敗れ、大雪の中の敗走で多数の凍死者を出した。
  • 中山では慕容皓・慕容麟らの内紛(寶暗殺未遂、麟の反乱)が相次ぎ、清河公慕容会も龍城で反乱を起こして慕容隆を殺害するなど混乱が深まった。会の乱は高雲らに鎮圧されたが、慕容詳が中山で僭称・粛清を行い、慕容麟がこれを討って再び僭称するなど内乱が続いた。
  • 慕容徳の勧めで南征を強行するが、慕輿騰の内乱(段速骨の反乱)で慕容農が殺害され、寶自身も蘭汗の許に逃れた末に弑殺された(隆安3年=399年)。享年44、在位3年。偽諡は惠湣皇帝、廟号烈宗。