晉書卷百二十三 載記第二十三 後燕 慕容垂(字道明)
慕容垂、字は道明(?–396年)。慕容皝の第五子で、前燕・前秦・後燕を渡り歩いた武将。前秦苻堅から厚遇されたが、淝水の敗戦後に自立して燕王を称し、のち皇帝に即位して後燕を建国した。参合陂の敗戦で戦死者の遺骨の山を目にして病を得、まもなく陣没した。
出自と若年期
- 慕容垂、字は道明。慕容皝の第五子。器量に優れ、身長7尺7寸、腕が膝下まで届く異相を持つ。父皝に寵愛され「家を破るか、家を成すか」と評された。もとの名は霸・道業だったが、狩猟中の落馬で歯を折ったことにちなむ改名や、讖文を避けての改名を経て「垂」を名乗った。宇文氏討伐の功で都郷侯に封じられ、石季龍の侵攻を退けた。
前燕での活躍と慕容評との確執
- 石季龍の死後の混乱に乗じて中原進出を進言し、幽州攻略戦では降兵の坑殺に反対して助命を進言、慕容儁の即位後は吳王に封じられ各地の要職を歴任。慕容暐の代には太宰慕容恪から「才は将相の器で自分の十倍」と高く評価されたが、桓温を枋頭で破って威名が高まると、慕容評に忌まれ誅殺の危機に陥り、子の慕容全と共に前秦の苻堅のもとへ亡命した(369年ごろ)。
苻堅への仕官と淝水の敗戦(383年)
- 苻堅は垂を厚遇し、王猛の暗殺工作(垂の子令を陥れる策謀)にも動じず垂を許した。前燕の慕容暐を捕らえた際には旧臣に対し複雑な感情を見せた。苻堅の淝水の戦い(383年)で秦軍が総崩れとなる中、垂の軍だけは無傷で残り、苻堅は千余騎で垂の陣へ逃れた。
- 子の慕容寶・弟の慕容德は苻堅を討って独立するよう強く勧めたが、垂は「厚遇を受けた恩義を忘れられない」として苻堅を助けた。この時の摴蒱(賭博)で寶が三度続けて盧(最高目)を出した逸話が「五木の祥」として伝わる。
燕王自立と鄴攻略(384年-386年)
- 苻堅の命で丁零族翟斌の反乱鎮圧に向かうが、副将苻飛龍の謀殺計画を察知して先に飛龍を討ち、募兵して自立。太元8年(383年)大将軍・大都督・燕王を自称(建元)、翟斌ら丁零勢力と合流して20万余の兵で鄴を攻めた。
- 苻丕(苻堅の子)は使者姜讓を送り翻意を求めたが垂は応じず、苻堅にも上表して事の経緯を釈明した。苻堅は返書で垂の裏切りを厳しく非難した。垂は鄴を包囲し漳水を引いて攻めたが、翟斌の専横(尚書令就任要求)が露見して誅殺、残党との戦いも経つつ、劉牢之率いる東晋の援軍に苦戦し一時撤退した。
- 太元11年(386年)中山を都に定め、燕王から皇帝を称した(建興と改元)。慕容寶を太子とし、旧燕の宗室を祀った。
諸国平定と皇帝としての治世
- 翟遼(翟斌の系統)を服属させ、後に翟遼の子翟釗を滑台の戦いで破って黄河流域を制圧。西燕の慕容永(長子に拠る)も攻め滅ぼし、その領土・戸口・宝物をすべて接収した(394年ごろ)。慕容農による山東方面の攻略も進み、勢力は最大化した。
参合の敗戦と死(396年)
- 太子慕容寶らに北魏遠征を命じたが、参合陂の戦いで魏軍の奇襲に遭い大敗、多数の将兵を失った(395年)。垂は自ら出陣して雪辱を図り、平城を陥落させたが、参合の戦跡で戦死者の遺骨の山を目にして慟哭・吐血し、病を得た。
- 太元21年(396年)、上谷の沮陽で死去。享年71、在位13年。簡素な葬送を遺命し、秘喪のまま京師へ帰ってから発喪するよう命じた。偽諡は成武皇帝、廟号世祖。