秦への降伏と滅亡(402年-403年)
- 呂隆、字は永基。呂光の弟呂寶の子。呂超に位を譲られ、元興元年(402年)天王位に即いた(神鼎と改元)。多くの豪族を殺して威を立てたため人心は離反。姚興配下の姚碩德が攻め寄せ、呂超は敗退。飢饉と包囲の中、民が城外へ逃れることも許されず多数が生き埋めにされる惨状となった。
- 禿髮傉檀・沮渠蒙遜の圧迫もあり、呂隆は姚興に降伏、住民を率いて長安へ移った。のちに息子呂弼の謀反に連座し姚興に誅殺された。呂光が涼州を平定してから呂隆の滅亡(安帝元興3年=403年)まで、通算13年余りとされる。
史論
- 史臣は、苻氏の混乱に乗じ呂光が異国の地で武功を立てた点を評価しつつも、晩年の政乱と一族間の簒奪劇(紹・纂の凡才、弘・超の凶狡、隆の平凡さ)が滅亡を招いたと総括する。竇融の帰順が代々栄えたのに対し、隗囂の反逆が身を滅ぼした故事を引き、正道に立ち返って晋に帰順していれば燕・秦の地を平定し桓文の功業も立てられたはずだったのに、非分の位を窃取したことを誤りと断じる。天の大徳は生を育むことにあり、器量なき者がその位に居れば禍は速やかに至ると結ぶ。
- 賛にいわく、晋の統治が揺らぎ天下が乱れる中、呂氏はその隙をついて人心を欺いたが、天命は偽ることができず、ついに滅び去った、と総括する。