晉書卷百二十二 載記第二十二 呂光

出自と苻堅への仕官

  • 呂光、字は世明。略陽の氐族出身。父呂婆樓は苻堅を補佐し太尉に至った。枋頭で生まれ、神秘的な光の異象があったため光と名づけられた。10歳の頃から遊びで陣立てを演じ仲間に推されるなど早熟で、成人後は身長8尺4寸、重瞳、寛大な度量を持つと評された。王猛に見出され苻堅に仕え、鷹揚将軍などを歴任、張平討伐で武名を挙げた。
  • 苻雙の反乱鎮圧、苻重謀反の鎮圧関与(重を捕らえて送った)、益州の反乱鎮圧、苻洛の乱平定などで功を重ね、驍騎将軍となった。

西域遠征(382年ごろ)

  • 苻堅の命で都督西討諸軍事として西域へ出兵。焉耆・亀茲などを攻略し、亀茲王帛純は救援に頼ったが呂光は連合軍を撃破、多数の国が服属した。西域平定の過程では黒龍の出現などの瑞祥譚が語られ、参軍杜進らが呂光の武運を称えた。鳩摩羅什を得たのもこの遠征の折である。
  • 苻堅の淝水の敗戦・長安危急の報を受け、呂光は西域から涼州へ帰還を決断。涼州刺史梁熙の抵抗を退け姑臧に入城、涼州刺史・護羌校尉を自称した。

涼州支配の確立と苻堅への服喪

  • 帰還後、主簿尉祐の反乱、張天錫の世子大豫を擁立した反乱など各地の反抗を鎮圧。苻堅が姚萇に殺されたとの報に接すると三軍で服喪し、太安と改元、使持節・大将軍・涼州牧・酒泉公を自称した(385年ごろ)。飢饉により穀価が高騰し人相食む惨状も伝わる。
  • 腹心杜進を甥の讒言により誅殺、参軍段業の諫言で厳刑を緩和するなど、統治は寛厳の間で揺れた。張掖太守彭晃・王穆らの反乱を鎮圧し、太元14年(389年)三河王を自称(麟嘉と改元)、さらに太元21年(396年)天王位を自称した(龍飛と改元)。

対乞伏乾歸戦と晩年の混乱

  • 乞伏乾歸との抗争では緒戦で敗れることもあったが金城を攻略するなど一進一退。晩年は讒言を信じて沮渠羅仇・沮渠麹粥を殺害したことが引き金となり、羅仇の甥沮渠蒙遜が反乱、段業を推戴して独立、郭黁の乱も起こるなど涼州は分裂状態に陥った。楊軌も反乱に加わった。
  • 呂光は隆安3年(399年)病没。享年63、在位10年。太子呂紹に位を譲り自ら太上皇帝を称したが、呂纂・呂弘との権力争いを案じつつ死去した。偽諡は懿武皇帝、廟号太祖。