簒奪と即位(338年)
- 李壽、字は武考。李驤の子。若くして学を好み度量があった。雄に重用され前将軍・征東将軍などを歴任、寧州平定の功で建甯王に封じられた。雄の死後、輔政の任を受け、期の代には漢王に改封され梁州を領した。
- 李壽は李越らに警戒され、また期兄弟の強兵を恐れて自衛を図り、隠士龔壯の勧めもあって腹心の羅恆・解思明らと成都攻略を計画。挙兵して成都を制圧したが、この際に略奪・暴行が横行し数日にわたり混乱が続いた。
- 羅恆・解思明らは李壽に晋への籓属(成都王を称す)を勧めたが、任調らは自立を勧め、占いの結果もあって咸康4年(338年)李壽は皇帝を自称(漢興と改元)、亡父李驤を献帝と追尊した。龔壯は師友として迎えられたが固辞し在野にとどまった。
対外方針と晩年(342年没)
- 石季龍(後趙)と結んで東晋を挟撃する計画を進めたが、群臣・解思明・龔壯の反対で中止した。李壽は石季龍の威勢に感化され、次第に苛烈な統治へ傾き、成都の充実のため強制移住や大規模な造営を行い、民を疲弊させた。諫言した左僕射蔡興・右僕射李嶷は誅殺された。
- 咸康8年(342年)李壽は死去。享年44、在位5年。偽諡は昭文帝、廟号中宗。晩年は宗廟制度の改変(父李驤を始祖廟に、李特・李雄を大成廟に)や旧臣の排斥を行い、龔壯・解思明らの晋への復帰勧告を拒み、勧告者を殺害するなど独善的な統治に傾いた。