晉書卷百十四 載記第十四 前秦 苻堅下
苻堅(続)。晩年、群臣の反対を押し切って東晋への大規模親征を強行するが淝水の戦いで大敗、以後は鮮卑・羌の相次ぐ離反を招いて長安を追われ、姚萇に捕らえられて縊死した。前秦全盛から一転、その滅亡に至る過程が記される。
苻堅――淝水の敗戦と滅亡(続)
宴席の逸話と宗室粛清(太元七年=382年頃)
- 前殿での宴で秦州別駕姜平子の詩に「丁」の字が真っ直ぐなことを堅が讃えた逸話が伝わる。堅の甥・東海公陽と王猛の子皮が謀反を企て発覚。陽は「父(哀公)の仇討ち」、皮は「父の功に見合う富がない」と弁明、堅は涙を流しつつも二人を配流に留め、誅殺しなかった。苻融は宗正としての監督責任を問うて辞任を願うも許されず、堅は荊揚攻略に意欲を燃やし融を征南大将軍に転任させた。
新平王彫の讖言と誅殺
- 太史令新平王彫は「草付臣又土」の讖文を根拠に堅の対燕・対六州平定を予言し重用されたが、王猛の進言により左道惑衆の罪で処刑された。刑に臨んでも予言の的中を訴え、後に新平で類似の宝器が発見されたことから堅は彫に光禄大夫を追贈した。
西域経営(呂光の派遣)
- 車師前部王・鄯善王の朝貢を機に、堅は苻融の反対(「虚耗中国」の諫言)を退けて呂光を都督西討諸軍事とし、七万を率いて西域平定に向かわせた。
対晋南征の是非をめぐる大論争
- 晋の朱綽の沔北屯田焼き討ちを機に、堅は九十七万の大軍による対晋親征を群臣に諮った。秘書監硃彤は賛成したが、左僕射権翼・太子左衛率石越は歳星の位置や晋の内政の安定(謝安・桓沖の存在)を理由に反対、堅は独断を示唆した。苻融は淝水後に振り返っても核心となる三つの理由(歳鎮の不利、晋主の英明、秦軍の疲弊)を挙げて強く諫めたが、堅は激怒して退けなかった。堅は沙門道安を輦に同乗させ寵愛し、権翼の諫めも聞き入れず、道安自身も遠征の中止を説いたが堅は従わなかった。少子の中山公詵も諫めたが「孺子の言」として退けられた。冠軍慕容垂だけが親征を強く煽り、堅は大いに喜んで帛を賜った。
淝水の戦いへの動員(太元八年=383年)
- 諸州の公私馬を徴発し、十丁につき一兵を出させ良家子から羽林郎を選抜、動員した良家子は三万余騎に及んだ。苻融・張蠔・苻方・梁成・慕容暐・慕容垂を前鋒として二十五万を先発させ、堅自身は戎卒六十余万・騎二十七万を率いて南下、前後千里、水陸から汝・潁に至る一大遠征軍となった。
淝水の敗戦
- 苻融が壽春を陥落させ、慕容垂が鄖城を陥した。梁成は洛澗に柵を設けて東晋軍を阻んだが、晋の劉牢之の夜襲により梁成以下十将が斬られ一万五千が戦死。堅は八千の軽騎で壽春に急行、苻融と共に八公山の草木を晋兵と見誤り(草木皆兵)動揺した。
- 晋の使者役となった硃序が謝石に速戦を勧め、謝玄の要請で秦軍が渡河のため後退した隙に晋軍が突撃、秦軍は総崩れとなり苻融は落馬して討ち死、堅自身も流矢を受けて単騎で淮北に敗走した(風声鶴唳の故事)。飢えた堅に食を給した農民は褒賞を辞退し忠義を説いた。堅は「朝臣の言に従っていれば」と落涙した。張天錫・硃序らはこの機に東晋へ帰順した。
敗戦後の混乱と鮮卑の離反
- 慕容垂の軍だけは無傷で残り、堅は千余騎でこれに合流。垂の子宝は堅殺害を勧めたが垂は従わなかった。堅は洛陽で十余万を収容し体裁を整えたが、垂は燕・岱への巡撫と拝墓を口実に離反の機をうかがい、堅は権翼の反対を押し切って許可、のち後悔して鄴・并州・洛陽に守備を固めた。長安に戻った堅は苻融の死を弔い、太廟に罪を告げ、恩赦と軍民慰撫の措置をとった。
丁零・慕容垂・慕容泓の相次ぐ蜂起
- 衛軍従事中郎の丁零・翟斌が河南で反乱、慕容垂・苻飛龍が討伐に向かうが垂は丁零と結んで飛龍を殺し鄴を包囲。垂の子農も反乱勢力を糾合し石越を敗死させた。慕容暐の弟・慕容泓も関中で挙兵し大将軍・済北王を自称、垂を丞相・吳王に推戴。堅の将強永はこれに敗れた。
- 権翼の進言で苻睿・竇沖・姚萇に泓討伐を命じたが、姚萇の諫言を無視した睿は華澤で敗死、これを機に姚萇も離反した。竇沖は慕容沖(泓の弟)を破ったが、沖は泓の軍に合流し十余万に膨張、堅への和睦提案(武牢を境に分王)を拒絶され、堅は慕容暐を問責しつつも「父子兄弟に及ばず」として赦した。暐は密かに泓へ挙兵継続を促す書を送っていた。
姚萇との攻防
- 堅は自ら姚萇を北地に討ち、楊璧・竇沖らが萇軍の水源を断つなど優勢に進めたが、萇陣営に降雨があり士気が回復。泓は謀臣に殺され、弟の慕容沖が皇太弟として擁立された。
長安包囲と苻堅の最期(太元十年=385年)
- 慕容沖が長安に迫り、堅は「牛羊を牧すべき奴輩が」と罵ったが、沖は「奴の苦しみに飽きた」と応酬。堅の贈った錦袍にも沖は皮肉で応じた。苻丕は鄴で糧尽き松の木を食う窮状に陥りつつも晋への帰順交渉(楊膺の画策)を進めた。
- 長安では慕容暐一族と城内の鮮卑千余人による堅暗殺計画が発覚(密告者は突賢の妹)、堅は暐父子と一族、城内の鮮卑を悉く誅殺した。長安は大飢饉に陥り人が人を食う惨状となった。慕容沖はついに阿房で皇帝を僭称、堅は防戦するも敗色濃く、苻暉は自殺、苟池は戦死、姚萇の圧力と沖の攻勢に挟撃され、関中の民は離散した。
- 堅は五将山に逃れ、太子宏に後事を託した後、姚萇配下の吳忠に捕らえられ新平に幽閉された。姚萇は伝国璽の譲渡と禅譲を求めたが堅は「小羌が天子に迫るとは」「五胡の序列に羌の名はない」と一喝して拒絶、萇はついに堅を新平の仏寺で縊死させた。享年48、太元十年(385年)。中山公詵と張夫人も殉死した。苻丕は即位後、世祖宣昭皇帝と追諡した。
- 太子宏は南秦州刺史楊璧を頼るも拒まれ、氐豪強熙の助けで晋に帰順、後に桓玄の代に謀反の嫌疑で誅殺された。堅の在位は永興元年から数えて27年、童謡「阿堅連牽三十年」等が的中したと結ばれる。
王猛――前秦興隆の宰相
隠棲から出仕へ
- 王猛、字は景略。北海劇の人、魏郡に寓居。若くして貧しく畚(もっこ)売りを業としたが、仙人めいた老人に高値で買われる奇譚が伝わる(嵩高山の逸話)。学問と兵法を修め、気宇壮大で世俗と交わらず、隠者として桓温の関中入りの際に「長安を目前にしながら渡らぬのは民心を得ていないからだ」と諫言、桓温は返す言葉がなかった。師の勧めで桓温への同行を辞退した。
苻堅との出会いと統治手腕
- 苻堅は猛の名を聞き招聘、初対面から意気投合し(劉備と諸葛亮の故事に比される)中書侍郎に任じた。始平令として峻厳な法治を敷き、一吏を鞭殺したことを咎められても「乱邦は法で治むべし」と抗弁し堅に認められた。以後、尚書左丞・京兆尹・吏部尚書・尚書左僕射など急速に昇進、36歳で権勢並ぶ者なく、旧臣の讒言も堅が退けた。
- 慕容暐(前燕)討伐の総司令として軍紀を厳正に保ち民心を得た。功により清河郡侯に封ぜられたが恩賞は固辞した。冀州鎮撫でも辞任を願い出るも許されず、丞相・中書監等に累進、堅は「臥龍と見込んだ卿との出会いは千載の縁」と絶大な信頼を寄せた。
死と遺言(太元二年頃=376年頃)
- 猛の病に際し堅は郊廟に平癒を祈願、猛は病床から時政への諫言を上疏し堅を感動させた。臨終に「晋は僻陋ながら正朔を継ぐ国、親仁善隣を旨とし晋を討つべからず。鮮卑・羌は我が仇敵、後患となるゆえ漸次除くべし」と遺言して没した、享年51。堅は慟哭し「天は我に天下平定をさせぬのか」と嘆き、丞相の礼で厚く葬った。諡は武侯、朝野は三日間喪に服した。
苻融――堅の弟、明断の重臣
人物と才学
- 苻融、字は博休。堅の末弟。幼くして俊才、健の代に安楽王に封ぜられかけたが辞退し「箕山の操」と称えられた。文才に優れ『浮図賦』は当代随一と評され、道安にも劣らぬ玄談の才を持ち、武勇も百人に匹敵した。堅の信任篤く司隸校尉として断獄に長じた。
名裁判の逸話
- 妻殺しの冤罪を被った董豐の夢占いから真犯人「馮昌」を『易』の卦で推理し暴いた話、老女を襲った盗賊と目撃者の真偽を機知で見破った話(鳳陽門を走らせて逃げた方を盗人と断定)などが伝わる。堅も朝臣も感嘆し疑獄は必ず融に諮られた。
孝行と諫言
- 母への孝養を厚くし、堅の平呉・封禪への傾倒に対し「窮兵黷武は亡国の道」「江東は天佑の国」と繰り返し諫めたが容れられず、対晋親征に際しても慕容垂・姚萇らへの警戒と少年官僚の佞言への懸念を説いたが聞き入れられなかった。淝水の敗戦で融が戦死すると堅は深く悼んだ。
苻朗――風流の公子
経歴と人物評
- 苻朗、字は元達。堅の従兄の子。堅に「わが家の千里の駒」と評された才人。青州刺史として善政を敷いたが、晋の高素の伐討を受け謝玄に降伏を願い出て東晋に帰順、員外散騎侍郎となった。
- 江東でも超然とした風格で知られ、王忱兄弟を「人面狗心」と評するなど辛辣。謝安の宴席での唾の作法、味覚の鋭さ(塩加減・鶏の寝床・鵝の色まで言い当てる逸話)で「知味」と称された。数年後、王国寶の讒言により処刑されたが、刑に臨んでも詩を賦し従容としていた。著書『苻子』数十篇は老荘思想の流れを汲むとされる。