晉書卷百八 載記第八 慕容廆

慕容廆(字は奕洛瑰、?–333年)は昌黎棘城の鮮卑人で、有熊氏の末裔と称する東胡の系譜を引く。晋に帰服して鮮卑都督となり、流民を受け入れて礼教による統治を敷き、前燕建国の礎を築いた人物。生前は自ら王を称さず晋の藩屏として振る舞った。

年表(6件)

慕容廆――前燕建国の礎

出自と即位

  • 慕容廆、字は奕洛瑰。昌黎棘城の鮮卑人。祖先は有熊氏の末裔で東胡と号した。曾祖父莫護跋は魏初に遼西に入り公孫氏討伐の功で率義王となり棘城の北に建国、燕代の風習「歩揺冠」を愛用したことから「慕容」の氏が生まれたとされる。祖父木延は左賢王、父渉帰は柳城平定の功で鮮卑単于となり遼東北に遷った。
  • 廆は幼くして魁偉、身長八尺。安北将軍張華に「後に必ず命世の器となろう」と評され簪幘を贈られた。父渉帰の死後、叔父耐が位を簒って廆を殺そうとしたため逃亡、耐が国人に殺されると迎えられて即位した。

対外抗争と晋への帰服

  • 先君の宇文鮮卑への遺恨を晴らそうと討伐を武帝に願うも許されず、怒って遼西に侵入。晋の幽州軍に肥如で大敗するが、以後も昌黎侵掠を続け、扶余国を滅ぼして東夷校尉何龕の介入を退けた。
  • 「華夷の理は殊にして強弱固より別あり、いかで晋と競うべけんや」と考えを改め、晋に降って鮮卑都督に任ぜられる。太康十年(289年)に徒河の青山へ、元康四年(294年)には顓頊の墟とされる大棘城に遷り、農桑・法制を中国式に整えた。永寧年間(301-302年頃)の大水では倉を開いて民を救い、朝廷から嘉賞された。
  • 太安初(302年頃)、宇文莫圭配下の大素延が十万の軍で棘城を包囲するも、廆自ら甲冑を着け出撃してこれを大破。永嘉初(307年頃)には鮮卑大単于を自称。遼東太守龐本の私怨に発する素連・木津らの乱に対し、子の翰の進言(勤王義兵の策)により討伐し、遼東郡を立てて凱旋した。

東晋の藩屏として

  • 懐帝の平陽幽閉後、王浚は廆を散騎常侍・大単于に任じようとしたが受けず。愍帝・元帝からの官爵も再三辞退し、征虜将軍魯昌の勧めで長史王濟を建康に送り即位を勧進した。
  • 二京陥落後、廆は流民を受け入れて冀陽・成周・営丘・唐国の各郡を立てて統治し、裴嶷・魯昌・陽耽らを謀主、封奕・宋該らを文章の任に、劉賛を東庠祭酒として世子皝にも学ばせるなど、礼教による統治で名を高めた。
  • 平州刺史崔毖が高句麗・宇文・段部の三国と結んで廆討伐を謀るが、廆は籠城策で三国の連携を分裂させ、宇文悉独官を大破。玉璽三紐を得て建鄴に送り、崔毖は高句麗へ逃亡した。裴嶷の使者としての働きにより朝廷の評価が一変し、廆は監平州諸軍事・車騎将軍・遼東郡公(食邑一万戸)に進む。
  • 石勒の遣わした宇文乞得亀の攻撃を撃退し、その国を降して数万戸を得る。成帝即位後、侍中・特進に、咸和五年(330年)には開府儀同三司にも任ぜられたが固辞した。
  • 廆は『家令』数千言を著し「獄は人命に関わるゆえ慎むべし、賢人君子は国家の基、稼穡は国の本、酒色便佞は乱徳の甚だしきもの」と説いた。太尉陶侃へ二度にわたり書簡を送り、羯賊(石勒)討伐への協力と自らの燕王号の推挙を求めたが、朝議は定まらぬまま咸和八年(333年)に廆は薨去、時に六十五歳、在位四十九年。大将軍・開府儀同三司を追贈され「襄」と諡された(後に慕容俊の僭号に伴い「武宣皇帝」と追諡)。

裴嶷――流寓の名士、廆の謀主

  • 裴嶷、字は文冀。河東聞喜の人。父裴昶は司隸校尉。清廉で幹略に富み中書侍郎などを歴任。兄裴武の死後、甥開を伴い遼西を経て慕容廆に身を投じ、いち早く名分を定めて群士の模範となり長史として軍国の謀に参画した。
  • 宇文悉独官の包囲では「軍に号令なく陣立てもない敵は精兵の奇襲で破れる」と献策し的中させる。建鄴への使者として廆の威勢を朝廷に伝え評価を高め、留任の誘いを固辞して「廆の丹心を疑わせぬため」帰還した。廆は「裴長史のような中朝の名士が我に降ったのは天の授けだ」と称え、遼東相を経て楽浪太守となった。

高瞻――節を曲げなかった名士

  • 高瞻、字は子前。渤海蓚の人。永嘉の乱に際し郷里の父老と議り「幽・薊で兵強く国富む王浚を頼るべし」と一族数千家を率いて北徙、後に王浚の失政を見て崔毖に依り遼東に赴く。
  • 崔毖の三国連合による廆討伐に反対したが用いられず、崔毖の敗走後は廆に降る。廆は将軍位を与えるが高瞻は病と称して出仕せず、廆が「大禹は西羌に出で文王は東夷に生まれた、志略のみを問うべきで華夷の別にこだわるな」と説いても応じず、宋該との不和も重なって憂いのうちに没した。