晉書卷百二 載記第二 前趙錄二 劉聰(字玄明、一名載)
出生と資質
- 劉聰は劉元海の第四子、母は張夫人。生誕にまつわる瑞兆が語られ、幼少より聡明で学問・武芸ともに秀で、詩賦百余篇を著した。太原の王渾もその器量に驚嘆したという。
- 弱冠で洛陽に遊学し名士と交わったが、成都王穎に元海が害されることを恐れて穎の下に走った。元海が北単于となると右賢王に立てられた。
即位と初期の人事(永嘉4年=310年)
- 兄・劉和を誅殺した後、群臣に推されて即位(永嘉4年)。弟の劉乂に皇位を譲ろうとしたが固辞され、劉乂を皇太弟・大単于とし、自らは永嘉4年に即位、改元光興。
- 単氏(乂の母)との密通が発覚して単氏が憤死するなど、後宮の乱れが早くから見られた。
洛陽陥落と懐帝捕縛(永嘉5年=311年)
- 呼延晏・王弥・劉曜らを送って洛陽を包囲させ、宣陽門が陥落。城内は食糧尽き人が人を食う惨状となり、劉曜は諸王公・百官3万余人を殺し、洛水の北に「京観」(死体を積んだ塚)を築いた。
- 懐帝と伝国の六璽を平陽に移し、聰は懐帝を「特進・左光禄大夫・平阿公」に落とした。以後、光禄大夫庾瑉らの嘆きに怒った聰が懐帝を鴆殺する事件も起きる。
長安攻防と湣帝の降伏(建興4年=316年)
- 劉曜・劉粲らが長安を再三攻め、麹允・索綝らが防戦するも、ついに長安外城が陥落。湣帝は肉袒し羊を牽いて降伏、平陽に送られ「光禄大夫・懐安侯」とされた。麹允は自殺した。
寵臣・宦官の専横
- 劉殷の娘や中常侍王沈・靳準ら六劉氏の女が寵愛を集め、聰は後宮に淫し政務を宦官(王沈・郭猗・宣懐ら)に委ねた。忠臣の諫言はしばしば退けられ、太尉劉易・侍中卜幹らが直言して免官・憤死する事件が相次いだ。
- 陳元達は「皇儀楼」造営を諫めて処刑されかけたが、皇后劉氏の取り成しで赦され、以後も忠言を重ねた。
劉乂粛清事件(皇太弟廃立)
- 郭猗・靳準らの讒言により、皇太弟劉乂と大将軍劉粲の対立が煽られ、乂は謀反の疑いをかけられて東宮を包囲された。氐羌の酋長らが拷問により誣告させられ、劉乂は北部王に落とされた後、靳準により殺害された。連座して1万5千余人が生き埋めにされたと伝える。
- これにより劉粲が皇太子に立てられた。
軍事情勢――石勒・曹嶷・李矩らとの攻防
- 石勒・曹嶷は次第に自立の志向を強め、聰の統制は形骸化していく。趙固・郭默・李矩ら晋の残存勢力との戦闘も続いた。
- 螽斯殿の火災で聰の子ら21人が焼死するなど凶事が相次いだ。
晩年と崩御
- 宦官の娘を皇后に立てようとして王鑒ら諫言の臣を処刑するなど乱行が続いた。子・劉約の死とその後の異界訪問譚(元海の霊との邂逅など)が記される。
- 太興元年(318年)に没し、在位9年、諡は昭武皇帝、廟号は烈宗。
劉粲(劉聰の子)
- 字は士光。父の死後、聰の后・靳氏らを皇太后とし、自身も淫楽に耽って政務を顧みなかった。
- 靳準は劉粲に讒言して太宰劉景・太師劉顗・大司馬劉驥・大司徒劉勱ら重臣を誅殺させ、政権を掌握。まもなく靳準自身が反乱を起こして粲を殺害し、劉氏の一族を皆殺しにして元海・聰の陵墓を暴き宗廟を焼いた。
- 靳準は「大将軍・漢天王」を自称して晋に籠絡しようとしたが、まもなく劉曜・石勒によって滅ぼされる(次巻に続く)。
陳元達(附伝)
- 字は長宏、後部の人。本姓は高氏だが、生月が父の名を犯すとして陳に改めた。貧しい中で学問を修め、元海に招かれても応じなかったが、即位の報を受けて的中を予言し、まもなく黄門郎に召された。
- 元海・聰の二代にわたり忠諫を重ね、その死に際しては人々が皆その死を惜しんだと伝える。