晉書卷百一 載記第一 前趙錄一 劉元海(劉淵、字元海)
匈奴五部の出身で、冒頓単于の後裔と称し、漢の帝室の姓を継ぐと自称した劉元海(劉淵、字は元海、?–310年)。西晋末、恵帝の代の八王の乱に乗じて大単于に推され、漢王を称して自立、のち皇帝を称した。前趙(漢)の建国者であり、五胡十六国の始まりをなす。
載記序(総論)
- 異民族はいにしえより中国の周縁にあり、その脅威は古代から史書に詳しく記されてきた。孔子も管仲の功を称え、燕・秦は国境の防備に努めたが、それでも異民族の侵入を完全には防げなかった。
- 漢の宣帝・光武帝以降、南匈奴を国境近くに住まわせる懐柔策を取ったが、董卓の乱以降さらに内地への移住が進んだ。西晋の郭欽・江統は異民族を辺境へ戻すよう進言したが用いられず、劉元海(劉淵)の台頭を招いた。
- 惠帝の代、司馬氏一族の内紛(八王の乱)に乗じて劉元海が離石で漢を称し(永興元年=304年)、以後、石勒の趙(313年頃)、張氏の涼、冉閔の魏、苻健の秦、慕容氏の燕、乞伏氏の秦、呂光の涼、慕容徳の南燕、禿髮烏孤の南涼、段業・沮渠蒙遜の北涼、李玄盛の西涼、譙縦の成都、赫連勃勃の夏、馮跋の北燕と、次々に群雄が割拠した。この戦乱の時代は136年続き、その禍の発端は劉元海にあると総括する。
出自と幼少期
- 劉元海は新興の匈奴人、冒頓単于の子孫。前漢の宗女を冒頓に嫁がせ兄弟の約を結んだ縁で、その子孫は劉姓を名乗った。
- 後漢末、南単于於扶羅・呼廚泉らを経て、魏の武帝が匈奴の部衆を五部に分割した際、元海の父・劉豹が左部帥となった。
- 元海は母・呼延氏が霊夢を見て身ごもったとされ、7歳で母を喪うも哀情が周囲を感動させた。上党の崔游に師事し『毛詩』『易』『尚書』『春秋左氏伝』『孫呉兵法』などに通じ、武芸にも優れた。屯留の崔懿之や襄陵の公師彧ら人相見からも非凡と評され、太原の王渾とも親交を結んだ。
洛陽出仕と武帝への謁見
- 咸熙年間、人質として洛陽に在り、文帝(司馬昭)に重んじられた。泰始以降、王渾の推挙で武帝(司馬炎)に謁見し、その器量を賞賛された。王済も元海の才を高く評価したが、孔恂・楊珧は「異族の心は測りがたい」として登用に反対し、武帝もこれに従った。
- 涼州の反乱鎮圧を巡っても、李憙が元海の登用を薦めたが孔恂が「蛟龍を雲雨に放つに等しい」と諫めて実現しなかった。斉王攸も元海の危険性を武帝に説いたが、王渾の弁護で処刑は免れた。
五部大都督から大単于推戴へ
- 豹の死後、元海は左部帥を継ぎ、北部都尉・建威将軍・五部大都督などを歴任。刑法を明らかにし、財を軽んじ人材を集めたため、幽冀の名士も多く集った。
- 成都王穎に仕えていたが、恵帝の混乱(八王の乱)の中、従祖の劉宣らが元海を大単于に推戴しようと画策。穎に帰葬を願い出て許されず、腹心の呼延攸を先に帰らせ、五部の結集を進めさせた。
- 穎が皇太弟となり、恵帝との戦い(蕩陰の戦い)で穎方は苦境に陥った。東嬴公騰・王浚らの挙兵に対し、元海は穎に「自ら五部を説得しに戻る」と申し出て、実際には五部を糾合して自立。左国城で単于を称し、二十日で五万の兵を集めた。
漢王即位(304年)
- 穎が敗れて洛陽へ逃れると、元海は鮮卑討伐の名目で兵を送るも、部下の劉宣らは「これぞ天が我らに与えた好機」として司馬氏打倒を勧め、元海も同意。漢の後継者を称して人望を得る方針を決め、左国城に遷って永興元年(304年)、漢王を自称した。
- 蜀漢の劉禅を孝懐皇帝と追尊し、漢の三祖五宗を祀り、百官を置いた。
- 以後、東嬴公騰・并州刺史劉琨らとの攻防を経て、河東・平陽の攻略に成功し蒲子に都した。汲桑・王弥・石勒ら諸将も相次いで帰順した。
皇帝即位と平陽遷都(永嘉2年=308年)
- 永嘉2年(308年)皇帝を称し、改元して永鳳とした。子の劉和・劉聰らを要職に封じた。太史令の進言により平陽(陶唐旧都の地)に遷都、汾水で得た玉璜を瑞祥として改元(河瑞)した。
- 子の劉聰・王弥らに洛陽侵攻を命じたが緒戦は敗退。冬に再度大軍を送り洛陽を包囲するも、東海王越の反撃や食糧不足で撤退を繰り返した。
- 晩年、後継を巡り歓楽・洋・延年・聰らに役割を分担させ、永嘉4年(310年)に没した。在位6年、諡は光文皇帝、廟号は高祖。
子・劉和の即位と粛敗(310年)
- 劉和(字玄泰)が即位したが、衛尉劉鋭・宗正呼延攸らの讒言により、弟の劉聡・劉裕・劉隆・劉乂を粛清しようと図った。
- しかし劉聰は事前に備えており、逆に和方が敗れ、劉和は光極殿西室で誅殺された。鋭・攸も梟首された。
劉宣(附伝)
- 字は士則。学を好み、楽安の孫炎に師事して『毛詩』『左氏伝』に通じた。武帝にもその人柄を評価され、右部都督に任じられた。
- 元海の漢王即位はもとより劉宣の献策によるもので、以後も元海の信任厚く、軍国の内外を専断する重臣となった。