出自と楽郷の乱
- 杜弢、字は景文、蜀郡成都の人。祖父の杜植は蜀の地に名を知られ、武帝の代に符節令となった。父の杜眕は略陽護軍であった。杜弢は初め才学で著称し州から秀才に挙げられた。李庠の乱に遭い南平に避難したところ、太守応詹はその才を愛して礼遇した。のち醴陵令となった。
- 当時、巴蜀の流人汝班・蹇碩ら数万家が荊湘の間に散在し、旧住民から迫害を受け皆恨みを抱いていた。属賊李驤が県令を殺し楽郷に屯集すると、衆は数百人に及び、杜弢は応詹とともに李驤を撃破した。
湘州占拠
- 蜀人杜疇・蹇撫らが再び湘州を騒がせ、参軍馮素が汝班と不和であったため刺史荀眺に「流人はみな反逆を欲している」と讒言、眺はこれを信じ流人を尽く誅そうとした。汝班らは死を恐れて衆を集め杜疇に応じた。この時、湘中にいた杜弢は賊衆から主に推され、自ら梁益二州牧・平難将軍・湘州刺史を称し、郡県を攻め破った。荀眺は城を委ねて広州へ逃げた。
- 広州刺史郭訥が始興太守厳佐に討伐させたが杜弢はこれを迎撃して破った。荊州刺史王澄も王機を遣わして討たせたが巴陵で敗れた。杜弢はさらに兵を放って暴虐を極め、山簡に偽って降伏し、簡は広漢太守に任じた。
官軍との抗戦
- 荀眺の逃亡後、州人は安成太守郭察を推して州事を領させ討伐に向かわせたが逆に敗れ郭察は戦死した。杜弢は南下して零陵を破り東に武昌を侵し、長沙太守崔敷・宜都太守杜鑒・邵陵太守鄭融らを殺害した。元帝は征南将軍王敦・荊州刺史陶侃らに討伐を命じ、前後数十戦の末、杜弢の将士は多くが死傷し降伏を請うたが、帝は許さなかった。
- 杜弢は応詹に書を送り、自らの窮状と義憤を長文で訴えた。要旨は次の通り。流民が受けた苦難は自分たちの発端ではなく、楽郷の変も予期せぬ事態であったこと。湘中で衆に推された経緯、死を恐れて団結したまでで叛意はなく天下が定まれば朝廷に忠誠を尽くすつもりであったこと。前刺史山簡がこの事情を理解し受け入れてくれていたが薨去して事は頓挫したこと。滕永文・張休豫を遣わして大府に事の顛末を訴えたいが讒言を恐れ果たせずにいたこと。今、王敦・陶侃の水陸十万の大軍が迫るが、赦書を出しながら討伐を続けるのは信を失う行いであり、追い詰められた者を敵に回すのは得策ではないこと。晋文公が原を伐った際に信を全うした故事を引き、自らの赤心は神明に誓えるものであることを訴えた。
応詹の弁護と再叛・逃亡
- 応詹は深く同情し、杜弢の書を朝廷に呈上し、上言して「杜弢は益州秀才で清望があり文理・幹事ともに優れる。李驤の乱に際しては私財を投じて義勇を募り登壇歃血して忠義を示した。湘川を破ったのは確かに杜弢の罪だが、両軍の交わりの中で事態が広がったに過ぎない。書を見るに血誠は明らかである」と述べ、朱鮪が光武帝に赦されて功を立てた故事を引き、赦免と大使派遣による招撫を進言した。
- 帝はついに前南海太守王運を遣わして杜弢の降伏を受け、詔書を宣して大赦とし、すべての反逆の罪を除き杜弢を巴東監軍に加えた。
- しかし降伏後も功を求める諸将の攻撃が止まなかったため、杜弢は憤激して王運を殺し、将の王真に精卒三千を与え奇兵として江南に出し武陵に向かわせ官軍の運路を断とうとした。陶侃は伏波将軍鄭攀に迎撃させ大破し、王真は湘城へ歩いて逃げた。陶侃らの諸軍が一斉に進撃すると王真はついに侃に降伏し、党衆は四散した。杜弢は逃げ隠れ、その後の消息は分からなくなった。