晉書卷一百 列傳第七十 杜曾

出自と竟陵占拠

  • 杜曾は新野の人で、南中郎将杜蕤の従祖弟である。若くして驍勇絶倫で、甲冑を着けたまま水中を泳ぐことができた。初め新野王司馬歆の鎮南参軍となり、華容令を経て南蛮司馬に至った。戦陣に臨めばいつも三軍随一の勇猛を示した。
  • 永嘉の乱で荊州が荒廃すると、旧牙門将胡亢が竟陵で衆を集め自ら楚公と号し、杜曾を仮の竟陵太守とした。その後、亢はその党と互いに猜疑しあい、驍将数十人を誅殺したため杜曾は不安を覚え、密かに亢を図る一方で身をかがめ亢に仕え亢の信任を篤くした。
  • 折しも荊州の賊王沖が自ら荊州刺史と号し勢力盛んで、しばしば亢の統べる地を侵していた。亢が対策を杜曾に問うと、杜曾は攻撃を勧め、亢も同意した。杜曾は帳下の刀戟を研がせると称して密かに王沖の兵を引き入れ、亢が精騎を出して沖を防いでいる隙に城中は空虚となり、杜曾は亢を斬りその衆を併合、自ら南中郎将・領竟陵太守と号した。
  • 杜曾は南郡太守劉務の娘を求めて得られず、その一族を皆殺しにした。湣帝が第五猗を安南将軍・荊州刺史として遣わすと、杜曾は襄陽で猗を迎え、兄の子に猗の娘を娶わせ、沔漢一帯を分かち拠った。

陶侃との攻防

  • 陶侃は新たに杜弢を破ったばかりの勢いで杜曾を軽んじて攻めようとした。侃の司馬魯恬は「古人は戦う前に必ず相手の将を測る。今、使君の諸将で杜曾に及ぶ者はいない。容易に迫るべきではない」と諫めたが侃は従わず、石城に進軍して曾を囲んだ。
  • 杜曾軍は騎兵が多く侃軍には馬がなかったため、曾は密かに門を開いて侃陣に突入し背後へ回り込んで攻撃、侃の軍は敗れ水に投じて死ぬ者が数百人に及んだ。曾は順陽へ向かおうとした将で馬を下り侃を拝し、告辞して去った。
  • その後、曾は平南将軍荀崧に書簡を送り丹水の賊を討って功を立てたいと申し出、崧はこれを容れた。陶侃は崧に書を送り「杜曾は凶狡で、その率いる兵は皆豺狼、鴟梟が母を食うような輩だ。この者が死なぬ限り州土は安まらない」と警告したが、崧は宛の兵が少なく曾を外援として頼りにしたため聞き入れなかった。曾はさらに流亡の民二千余人を率い襄陽を包囲したが、数日で陥落させられず退いた。

敗亡

  • 王暠が荊州刺史となり杜曾がこれに抵抗すると、暠は将の硃軌・趙誘を遣わして討たせたが、いずれも曾に殺された。王敦は周訪を遣わして討たせたが、しばしば戦っても勝てず、訪は密かに人を遣り山沿いに道を開かせ、曾の不意を突いて襲撃、曾の衆は潰走し、その将馬俊・蘇温らが曾を捕らえて訪に降った。
  • 訪は曾を生け捕りにしたまま武昌へ送ろうとしたが、硃軌の子の昌と趙誘の子の胤が曾を父の仇として乞い受けたため、曾は斬られ、昌・胤はその肉を切り取り食らった。