出自と漕運の功
- 陳敏、字は令通、廬江の人。若くして幹能があり、郡の廉吏から尚書倉部令史に補せられた。趙王(司馬倫)の簒逆で三王が義兵を起こし久しく屯して散じない中、京師の倉廩が空虚になったため、陳敏は「南方の米穀は数十年蓄積し腐敗しかけているのに、これを中州へ漕運せねば急を救えない」と建議した。朝廷はこれに従い、陳敏を合肥度支とし、のち広陵度支に遷した。
張昌余党討伐と越の書
- 張昌の乱で石冰らが寿春に向かうと、都督劉准は憂慮するばかりであった。当時陳敏は大軍を寿春に統べており、准に「これらの者はもともと遠戍を嫌がって賊にされたにすぎない。烏合の衆はすぐに離散する。私に運兵を合わせて指揮させれば必ず破れる」と言い、准は兵を増やして討たせた。陳敏は呉弘・石冰らを破り、勝ちに乗じて追撃すること数十合。冰の衆は陳敏の十倍いたが、寡をもって衆を撃ち毎戦勝ち続け、ついに揚州に至った。
- 翻って徐州の賊封雲を討伐すると、雲の将張統が雲を斬って降った。陳敏はその功で広陵相となった。惠帝が長安に行幸し四方が争う中、陳敏は江東割拠の志を抱いた。父はこれを聞き「わが家を滅ぼすのはこの子であろう」と怒った。父の死後、陳敏は職を辞した。
- 東海王越は西迎の大駕に際し陳敏を承制して右将軍・仮節・前鋒都督とし、書を送って「将軍は富国の謀に功あり、冰・昌の乱に際しては義徒を率い寡をもって衆に敵し、内外に援助のないまま単身奮戦し三十余戦して師徒に損なわれることなく強敵を自滅させた。五州を全うし苞茅の貢が復するのは将軍の功力である」と称え、羯賊(石勒)討伐への協力と米布軍資の運搬を求めた。
江東割拠
- 越は豫州刺史劉喬を討ったが、陳敏はこれに合流し越とともに蕭で敗れた。陳敏は中国大乱に乗じ東帰を請い、兵を集め暦陽に拠った。折しも呉王常侍甘卓が洛陽から至り、卓に皇太弟の命と偽らせ陳敏を揚州刺史に任じ、江東の首望顧栄ら四十余人を将軍・郡守に仮に任じた(顧栄らは偽って従った)。陳敏は子のために甘卓の娘を娶わせ表裏を為した。揚州刺史劉機・丹陽太守王広らは皆官を棄てて逃走した。
- 弟の陳昶は顧栄らに二心があるのを知り殺すよう勧めたが陳敏は従わなかった。昶は精兵数万を率いて烏江に拠り、弟の恢は銭端らを率い南下して江州を侵し刺史応邈は逃走、弟の斌は東方の諸郡を略取し呉越の地を有するに至った。陳敏は僚佐に命じ自らを都督江東軍事・大司馬・楚公とし十郡に封じ九錫を加え、尚書に上表して自ら黄河へ入り鑾駕を迎えると称した。
華譚の書と敗死
- 東海王軍諮祭酒華譚は陳敏が自ら官職を署置し、江東の首望である顧栄らが皆その官爵を受けたと聞き、栄らに書を送り「石冰の乱の際、朝廷は陳敏の微功を録し上将の任を授けたが、その本性は凶狡で見識もなく、榮を貪り天に逆らって兵を阻み威を作し呉会に盗拠し、内は凶暴な弟を用い外は軍吏に委ね、朝廷の寵授の恩を裏切っている」と非難し、江東の仁人がその叛逆の朝に身を辱めることを恥じるべきだと説き、王蠋・於期・龔勝・魯連らの故事を引いて義烈を促した。
- また孫呉の先例(孫堅・孫策・孫権)を引き、陳敏ごとき倉部令史の頑冗な小才が桓王・大皇の高蹤を踏もうとするのは無謀だと述べ、荊州・徐州・征東の軍が呉会を挟撃すれば陳敏は滅びると予言、諸賢に良策を図るよう促した。
- 陳敏は凡才で遠略なく、一朝にして江東を有したが刑政に法度なく英俊の心服を得られず、子弟も凶暴で至る所で害をなした。周玘・顧栄らは常に禍敗を懼れており、華譚の書を得て皆恥じ入った。玘・栄は密かに征東大将軍劉准に討伐を求め内応を約した。
- 准は揚州刺史劉機・甯遠将軍衡彦らを暦陽に出し、陳敏は弟の昶と将軍銭広を烏江に遣わして防がせ、弟の閎を暦陽太守として牛渚を守らせた。銭広は長城の出身で周玘の郷人であり、玘は密かに昶を図らせた。広は属官の何康・銭象を昶のもとへ遣わし、昶が書に俯いて見ている隙に康が斬殺、州は既に陳敏を殺したと詐称し三族誅殺を布告して角笛で内応の合図とした。銭広は硃雀橋に兵を配し水南に陣を布き、周玘・顧栄はさらに甘卓を説き敵に背かせた。
- 陳敏は万余人を率い甘卓と戦おうとしたが渡河できぬうちに、顧栄が白羽扇で合図すると陳敏の衆は潰走した。陳敏は単騎で東へ逃げ江乗に至り、義兵に斬られた。母及び妻子は皆誅せられ、会稽の諸郡は陳敏の弟たちを一人残らず殺した。