郭黁
- 郭黁、西平の人。若くして『老子』『易』に明るく、郡の主簿として仕えた。張天錫の末年、苻氏がたびたび西征の可否を問うてきた際、太守の趙凝は黁に占わせた。黁は「もし郡内で2月15日に囚人が逃げれば、東の軍が到来し涼の国運は必ず終わるでしょう」と言った。凝はそこで属県に警戒を通達した。15日になると、鮮卑の折掘が凝に馬を献上した際、凝はそれが良馬でないことに怒り、内厩に幽閉すると、鮮卑は恐れて夜逃げした。凝がこれを黁に告げると、黁は「これです。国はまもなく滅び、もう立て直すことはできません」と言った。
- 苻堅の末年、当陽門で雷が鳴った際、刺史の梁熙が「この兆しは何を表すのか」と黁に問うと、黁は「四夷の事です。二人の外国の王が主上に朝貢に来て、一人は帰国し、一人はこの城で死ぬでしょう」と答えた。一年余り後、鄯善と前部の王が苻堅のもとへ朝貢し、西に帰る途中、鄯善王は姑臧で死んだ。
- 呂光が河西の王となった頃、西海太守の王楨が反乱を起こした。黁は光に彼を襲撃するよう勧めた。光の左丞の呂宝は「千里を遠征して人を襲うことは昔から難しいとされます、まして王者の軍は天下に知られており、どうして僥倖を頼りに成功を狙えましょうか。黁の言に従うべきではありません、大事を誤ります」と言った。黁は「もし成功しなければ、私が自ら斧鉞の罰に伏しましょう。もし勝てば、左丞は無策と言われることになりましょう」と言った。光はこれに従い、勝利した。光は黁を京房・管輅に比し、常に帷幄の密謀に参加させた。
- 光が乞伏乾帰を討伐しようとした際、黁は諫めて「今、太白(金星)がまだ現れていません、軍を発すべきではありません、行けば必ず功なく、ついには敗れるでしょう」と言った。太史令の賈曜は必ず秦隴の地を得られると考えた。金城を攻略すると、光は曜に命じて黁を詰問させた。黁は密かに光に「昨日、流星が東に落ちた、将が伏屍することになるでしょう。この城を得ても、守り切れないことを憂うべきです。正月上旬に黄河の氷が解けようとしています、もし早く渡らなければ大きな変事が起こるでしょう」と告げた。二日後、敗報が届き、光は軍を率いて黄河を渡り終えると氷が解けた。当時の人々はその神験に感服した。光は黁を散騎常侍・太常とした。
- 黁は後に、光が年老いていずれ敗れることを知り、光の僕射の王祥とともに兵を挙げて反乱を起こした。百姓は黁の挙兵を聞き、聖人が事を起こしたのだから必ず成功すると考え、先を争って従った。黁は「呂に代わるのは王である」と考え、王乞基を推戴して主とした。後に呂隆が姚興に降ると、興は王尚を涼州刺史とし、結局黁の言葉の通りとなった。
- 黁と光が対峙していたとき、逃げてきた者が呂統(光の子)が病死したと伝えると、黁は「まだだ、光と統の命は同時に尽きる」と言った。後に統が死んだ三日後に光も死んだ。黁はかつて「涼州の謙光殿の後には索頭鮮卑がここに住むだろう」と語ったが、最終的に禿髪傉檀・沮渠蒙遜が相次いで姑臧を占拠した。
- 黁は性格が偏狭で酷薄であり、士人や庶民から支持されなかった。戦いに敗れると乞伏乾帰のもとへ逃れた。乾帰が敗れると、姚興のもとへ入った。黁は「姚(後秦)を滅ぼすのは晋である」と考え、妻子を連れて南へ逃れたが、追撃の兵に殺された。