晉書卷九十四 列傳第六十四 宋纖

宋繊

  • 宋繊、字は令艾、敦煌效穀の人。若くして遠大な志操があり、落ち着いて世と交わらず、酒泉の南山に隠棲した。経典とその注釈を深く究め、3000余人の弟子が彼に学んだ。州郡の招聘には応じず、ただ陰顒・斉好とのみ親しく交わった。
  • 張祚の時代、太守の楊宣は彼の肖像を楼閣に描き、出入りのたびにそれを眺め、頌を作って「何を枕とするか、どの石であろうか。何を瀬とするか、どの流れであろうか。その身は見ることができず、その名も求めることができない」と詠んだ。酒泉太守の馬岌は高潔な士であり、儀仗を整え鐃や太鼓を鳴らして彼を訪ねた。繊は高楼に籠り姿を見せなかった。岌は嘆じて「名は聞けるがその身は見えず、徳は仰げるがその姿は見えない。私は今こそ先生が人中の龍であることを知った」と言い、石壁に詩を刻んだ。「丹の崖は百丈、青い壁は万尋。奇木は生い茂り、鄧林のように鬱蒼としている。その人は玉のようで、国の宝である。住まいは近くとも人は遠く、まことに我が心を煩わせる」。
  • 繊は『論語』に注をつけ、詩や頌など数万言を著した。80歳になっても学問に篤く倦むことがなかった。張祚は後に使者の張興に礼を整えさせ太子友として召そうとした。興は強く迫って説得したため、繊はため息をついて「私の徳は荘子に及ばず、才は段干木に及ばない、なぜ明命を留めることがあろうか」と言い、興に従って姑臧に至った。祚は太子の太和を執友(対等な友)の礼をもって訪ねさせたが、繊は病と称して会わず、贈り物もすべて受け取らなかった。まもなく太子太傅に昇った。
  • しばらくして上表した。「臣は俗世の外に生を受け、心は太古を慕っています。生きて存えることを喜ばず、死んで滅びることを悲しみません。かねてより遺言を親しい者に伝えています。山で死ねば山に、水で死ねば水に葬り、沢にあれば亡骸を露わにし、人里にあれば土に近づけてください。訃報や書状は我が家に伝えないでください。今、命が尽きようとしています、どうかかねての願いの通りにさせてください」。そして食を絶って没した。時に82歳。「玄虚先生」と諡された。