晉書卷九十四 列傳第六十四 霍原

霍原

  • 霍原、字は休明、燕国広陽の人。若くして志と力があり、叔父が法に触れ死罪となった際、原は獄に入って訴え、厳しい拷問を受けながらも、ついに叔父を救った。18歳のとき、太学の儀礼を見学し、そのまま留まって学んだ。貴族の子弟たちはこれを聞いて彼を重んじ、面会を望んだが、彼の名声がまだ低かったため昼間には訪れず、夜にともに訪ねた。
  • 父の友人で同郡の劉岱が彼を推薦しようとしたが、実現前に病が重くなり、臨終に際し子の沈に「霍原は道を慕い清らかで虚心であり、いずれ非凡な人物となるだろう。お前は後に必ず彼を推挙せよ」と命じた。後に原は郷里に帰った。高陽の許猛はかねてより彼の名声を敬っていたが、たまたま幽州刺史となり訪ねようとしたところ、主簿が車を止めて州境を出るべきでないと諫めたため、猛は嘆き残念に思いながら思いとどまった。
  • 原は山中に何年も住み、門人は百人を数え、燕王は毎月羊と酒を届けた。劉沈が国の大中正となり、元康年間、原を二品に推挙したが、司徒がこれを承認しなかったため、沈は上表してこれを弁じた。詔により司徒に参議を命じ、中書監の張華は陳準に上品を上奏させ、詔により承認された。
  • 元康末年、原は王褒らとともに賢良として召され、たびたび州郡に礼をもって送られたが、いずれも到着しなかった。後に王浚が皇帝を僭称しようと企てた際、人を遣わして原に意見を求めたが、原は答えず、浚は内心これを恨んだ。また遼東の囚人300余人が山を頼りに賊となり、原を担ぎ上げて首領にしようとしたが、これも実行されなかった。当時、童謡があり「天子はどこにいるのか、近くの豆畑の中にいる」と歌われた。浚は「豆」を「霍」(同音に近い連想)と解釈し、原を捕らえて斬り、その首を晒した。門人たちは悲しんで泣き、夜密かに遺骸を盗んで共に埋葬した。遠近の人々は驚愕し、その死を冤罪として痛惜しない者はなかった。