范粲
- 范粲、字は承明、陳留外黄の人、漢の萊蕪県令范丹の孫である。粲は高潔で剛直誠実、丹のごとき気風を持ちながら、博く学び記憶力に優れ、その学問はみな師と仰ぐに値し、遠近から教えを請う者が大変多かった。性格は気取らなかったが、彼を見る者はみな粛然とした。魏の時代、州府がこぞって招いたが、いずれも応じなかった。
- 長く経ってから治中として仕え、別駕に転じ、太尉の掾・尚書郎に招かれ、征西司馬として出た。歴任した官職はいずれも名声を得た。宣帝(司馬懿)が輔政するに及び、武威太守に昇った。郡に到着すると良吏を選び、学校を建て、農桑を奨励した。当時、異民族がしばしば辺境を侵していたが、粲は明確に防備を整えたため、敵はあえて侵さず、西域との交易も通じ、烽火の警報もなかった。また郡は豊かで珍しい品々が満ちていたが、粲はこれを規制し、華美な奢りを止めさせた。母の老齢を理由に官を辞した。郡は異民族に接する重要な鎮であったため、粲がその重鎮を離れたことを朝廷は咎め、楽涫令に左遷した。
- まもなく太宰従事中郎に転じた。母の喪に遭い、至孝で知られた。喪が明けると再び太宰中郎となった。斉王芳(曹芳)が廃されて金墉城に移された際、粲は喪服のまま拝礼して見送り、周囲の者を悲しませた。当時、景帝(司馬師)が輔政し諸官を招集して会議を行ったが、粲はまた出席しなかった。朝廷は彼の声望を考慮し寛大に扱った。粲はさらに病と称し門を閉ざして外に出なくなった。これに対し特別に侍中に任じ、持節して雍州に使いさせる詔が下された。粲はこれにより狂気を装い口をきかなくなり、乗っていた車に寝起きし、その足を地面に着けることはなかった。子孫が常にそばに仕え、婚姻や仕官などの大事があれば密かに彼に相談した。粲は同意すれば顔色を変えず、同意しなければ眠りが不安定になったため、妻子はこれで彼の意向を知った。
- 武帝の即位後、泰始年間、粲と同郡の孫和が当時太子中庶子であり、粲を推薦する上表を行い、その高潔な操行を称え、長く病に伏していることから郡県に命じて彼を京師に輿で運ばせ、聖恩をもって医薬を賜り、もし快癒すれば必ず政治に益するところがあると述べた。詔により郡県に医薬を給付させ、あわせて二千石の俸禄で療養させることを毎年の定めとし、加えて絹百匹を賜った。子の喬は父の病が重いことを理由に辞退したが、詔は許さなかった。太康6年(285年)に没した。時に84歳。36年間口をきかず、寝ていたその車の中で息を引き取った。長子は喬。
- 喬、字は伯孫。2歳のとき、祖父の馨(粲の父)が臨終に際し喬の頭を撫でて「お前が成人するのを見られないのが心残りだ」と言い、使っていた硯を彼に与えた。5歳のとき、祖母がこの経緯を喬に告げると、喬は硯を抱いて涙を流した。9歳で学を求め、同輩の中でみだりな言葉を口にすることがなかった。二十歳で楽安の蔣国明に師事した。済陰の劉公栄は人を見る目があり、喬に会って深くその才を重んじた。友人の劉彦秋はかねてより名声があり、かつて人に「范伯孫(喬)の資質は純粋に調和しており、思考は周到緻密だ。私はいつも彼の欠点を探そうとするが、ついに見つけられない」と語った。光禄大夫の李銓がかつて楊雄の才学が劉向より優れていると論じたが、喬は劉向が一代の書を定め諸書の篇を正したのであり、もし楊雄がその任にあたっても長所とはならなかっただろうと考え、『劉楊優劣論』を著した(文は省略)。
- 喬は学問を好み倦むことがなかった。父の粲が狂気を装い口をきかなくなると、喬と二人の弟はともに学業を捨て人との交わりを絶ち、家で父の病に付き添い、粲が没するまで郷里の外に一歩も出なかった。司隷校尉の劉毅はかつて朝廷で強く論じた。「もし范武威(粲)の病が本物でなければ、これは伯夷・叔斉が今の世に再び現れたようなものである。もし本物ならば、これはますます聖主が哀れみ憐れむべきことである。その子は長く父の病に付き添い、名声と徳がすでに顕著であるのに、登用しないのは朝廷が賢者を見逃したという批判を招くだろう」。
- 元康年間、詔により、身分に関わらず廉譲で控えめな寒門の士を求め、選挙の対象とすることになった。尚書郎の王琨は喬を推薦し「喬は徳を純粋に備え、操行は高潔、儒学は精深で内に才を秘め、貧に安んじて道を楽しみ、貧しい路地に志を置き、簞食瓢飲を歌いながらも年を経てますます堅固です。まさに今の世の寒門の士であり、俗を励ます清らかな才人です」と述べた。当時張華が司徒を兼ねており、天下から推挙された者は合わせて17人であったが、喬についてだけ特に優れた評を加えた。また吏部郎の郗隆も天下の隠遁の士を求めており、喬が貧しい家で親を養い白髪に至ったことから楽安令に任じたが、病と称して拝命しなかった。喬は結局、孝廉に一度、公府への推薦に八度、清白異行に二度、寒素に一度推挙されたが、いずれにも就かなかった。
- かつて、喬の郷里の者が大晦日の夜に彼の木をこっそり伐ったことがあり、それを告げる者がいたが、喬はわざと聞こえないふりをした。郷里の者は恥じて木を返しに来た。喬は彼のもとへ行き「あなたは節句の日に薪を取り、それで親を喜ばせようとしただけでしょう。恥じることはありません」と諭した。彼の人への理解と善導はみなこのようであった。外黄令の高頵は嘆じて「士大夫の中に私利を求めない者はいないが、范伯孫だけは謙虚に道に従い、その名は役所の記録に一度も上がったことがない。士人の貴さを、今この時に見ることができた。『大道が廃れて仁義が現れる』(老子の言葉)とはまことにその通りだ」と語った。彼の身の処し方の清らかさは、これほどまでに人々に感服された。元康8年(298年)に没した。78歳であった。