晉書卷九十三 列傳第六十三 王蘊

王蘊

  • 王蘊、字は叔仁、孝武定皇后(王法慧、孝武帝の皇后)の父、司徒左長史王濛の子である。佐著作郎として仕え始め、累進して尚書吏部郎となった。性格は穏やかで、寒門の人材を抑えることなく、官職の欠員があるたびに求める者が十人ほどいても、蘊は誰が良い悪いと判断しなかった。当時、簡文帝が会稽王として輔政していたが、蘊はそのつど上申し「某には地位に見合う資質があり、某には才能があります」と伝え、それぞれの適性に応じて登用に努めたため、選ばれなかった者にも恨みはなかった。
  • 呉興太守に任ぜられ、優れた徳政を行った。管轄の郡で流民が飢饉に見舞われた際、すぐに倉庫を開いて救済した。主簿が諫めて、まず上表して裁可を待つべきと求めたが、蘊は「今、百姓は叫び苦しみ、道には飢饉が満ちている。上表して裁可を待っていたら、今にも死のうとする命をどうして救えようか。専断の罪は太守たる私にある。仁義を行って罰せられるなら、それは悔いのないことだ」と言った。これにより大いに物資を貸し与え、蘊のおかげで助かった者は七、八割に及んだ。
  • 朝廷は規則違反を理由に蘊を免官としたが、士人・庶民が朝廷に訴え出たため、詔により特別に晋陵太守への降格に留められた。ここでも恵み深い治政を行い、民はこれを歌に詠んだ。
  • 定后(王法慧)が立后すると、皇后の父として光禄大夫に昇り、五兵尚書・本州大中正を兼ね、建昌県侯に封ぜられた。蘊は恩沢による叙爵が三代(夏殷周)の令典にかなわないと考え固辞した。朝廷が重ねて勧めても最後まで受けなかったため、都督京口諸軍事・左将軍・徐州刺史・仮節を授けたが、これも固辞した。謝安は蘊に「あなたは皇后の父という重い立場にあり、みだりに自らを卑下して時勢の待遇を損なうべきではありません。褚公(褚裒)の先例に倣い、ただ高位にありながら実務には関わらないというやり方をすればよいのです。しばらくこの任に就いて、皇室姻戚の重責を和らげてください」と言った。これにより蘊は命を受け、京口に鎮した。
  • まもなく尚書左僕射に召され、将軍号はそのままとされ、丹陽尹に昇り、元の軍号に散騎常侍を加えられた。蘊は姻戚であることを理由に都に留まることを望まず、強く外任を求め、再び都督浙江東五郡・鎮軍将軍・会稽内史とされ、常侍の位はそのままとされた。
  • 蘊はもともと酒を好み、晩年は特に甚だしかった。会稽にいた頃はほとんど酔いの覚めた日がなかったが、それでも穏やかで簡素な性格で民に慕われた。あるとき王悦が墓参りに訪れた際、蘊の子の恭が彼を訪ねた。二人はもともと親しかったため、十余日も留まってようやく帰った。蘊が理由を尋ねると、恭は「阿太(悦の幼名)と語り合っていて離れがたく帰れませんでした」と答えた。蘊は「阿太はお前の真の友ではないだろう」と言った。後に果たして二人の交わりは破れ、当時の人々は蘊を人を見る目があると評した。
  • 太元9年(384年)、55歳で没した。左光禄大夫・開府儀同三司を追贈された。
  • 長子の華は早くに没した。次の恭には別に列伝がある。恭の弟の爽、字は季明、剛直で志と力量があり、給事黄門侍郎・侍中を歴任した。孝武帝が崩じた際、王国宝が夜中に門を開けさせ入って遺詔を偽造しようとしたが、爽はこれを拒み「大行(先帝)が崩じられ皇太子はまだ到着していない。あえて入ろうとする者は斬る」と言い、これにより中止された。
  • 爽はかつて会稽王司馬道子と酒を飲んだ際、道子は酔って爽を「小僧」と呼んだ。爽は「亡き祖父の長史(王濛)は簡文皇帝と平民時代からの交わりがあり、亡き叔母・亡き姉はともに二つの宮(皇室)の后妃でありました。どうして小僧などと言われましょうか」と答えた。王国宝が権力を握ると爽を免官とした。皇后の兄の恭が二度挙兵すると、いずれも爽を寧朔将軍とし、軍事に参与させた。恭が敗れると、爽も誅殺された。