何准
- 何准、字は幼道、穆章皇后(何法倪、穆帝の皇后)の父である。高尚で欲少なく、二十歳で名を知られ、州府がこぞって招いたがいずれも応じなかった。兄の何充は驃騎将軍で、彼に出仕を勧めたが、准は「五番目の(自分の)名が驃騎(兄)の名を損なうことがあろうか」と答えた。准は兄弟の中で五番目であったため、このように言ったのである。
- 充は宰輔の重責にあり権勢は一世を傾けたが、准は帯を緩めて田舎の門に住み、世事には関わらず、ただ仏経を誦し塔廟を修めるのみであった。散騎郎に召されたが応じなかった。47歳で没した。昇平元年(357年)、金紫光禄大夫を追贈され、晋興県侯に封ぜられた。子の惔は父の清廉な行いを理由に上表してこれを辞退した。
- 三人の子、放・惔・澄。放は充の跡を継いだ。
- 惔は南康太守に至り、早くに没した。惔の子の元度は西陽太守。次の叔度は太常卿・尚書。
- 澄、字は季玄、秘書郎から仕え始め丞に転じ、清廉で人望があり、累進して秘書監・太常・中護軍に至った。孝武帝は彼を深く愛し、冠軍将軍・呉国内史とした。太元末年、琅邪王(後の安帝)が別邸に出るに際し、師傅を厳選し、澄は尚書に召され琅邪王師を兼ねた。安帝が即位すると尚書左僕射に昇り、選挙の任と王師をそのまま兼ねた。当時澄は脚の病を患い固辞したため、特別に朝会に出なくてよいことを許され、家にいて政務を執った。あわせて本州の大中正を兼ねた。桓玄が政権を執ると、病を理由に免官を奏し、家で没した。安帝の復位後、金紫光禄大夫を追贈された。長子の籍は早くに没した。次子の融は元熙年間(405-419年)に大司農となった。