王恂
- 王恂、字は良夫、文明皇后(司馬昭の妻)の弟である。父の肅は魏の蘭陵侯。恂は文義に博く通じ、朝廷にあって忠正であり、累進して河南尹となり、二つの学校を建て、五経を尊び明らかにした。鬲県令の袁毅がかつて駿馬を贈ったが、恂は受け取らなかった。毅が失脚すると、その贈り物を受け取っていた者はみな廃黜された。
- 魏では公卿以下に租牛客戸(労役免除の小作人)が身分に応じて割り当てられていたが、その後庶民が労役を恐れてこれになろうとする者が増え、権門ではしばしば百人単位に及んだ。また太原の諸部でも匈奴の胡人を田客として使い、多いところでは数千人に及んだ。武帝の即位後、こうした客の募集を禁じる詔が出され、恂はその規制を厳しく守らせ、管轄内でこれを犯す者はなかった。咸寧4年(278年)に没し、車騎将軍を追贈された。
- 恂の弟に虔・愷がいる。
- 王虔、字は恭祖。功績と能力で知られ、累進して衛尉となり、安寿亭侯に封ぜられ、平東将軍・仮節・青州諸軍事監督を拝命した。光禄勲に召され、尚書に転じて没した。子の士文が跡を継ぎ、右衛将軍・南中郎将を歴任し許昌を鎮守したが、劉聡に殺された。
- 王愷、字は君夫。若くして才能と力量があり、清顕な官位を歴任した。細かな行いには問題があったものの、公務における評判はあった。楊駿討伐の勲功により山都県公に封ぜられ、邑1800戸を得た。龍驤将軍に昇り驍騎将軍を兼ね、散騎常侍を加えられたが、まもなく事件に連座して免官となった。射声校尉として再起用され、後に後将軍に転じた。愷は世族・外戚の家柄であり、性格も豪奢で、赤石脂(赤い鉱石の泥)を壁に塗るほどであった。石崇と愷は毒殺事件に関与し、司隷校尉の傅祗が弾劾し、担当官はいずれも重罪と論じたが、詔により特別に許された。これにより人々はみな愷を恐れ、彼はますます意のままに振る舞い、望むことに何の遠慮もしなくなった。没した際、諡は醜。