張翰
- 張翰、字は季鷹、呉郡呉の人。父の儼は呉の大鴻臚。翰は清らかな才があり文章に優れ、奔放で拘らない性格であったため、当時の人は彼を「江東の歩兵(阮籍になぞらえた呼称)」と称した。
- 会稽の賀循が命を受けて洛陽へ赴く途中、呉の閶門を通過し、船中で琴を弾いていた。翰は面識がなかったが近づいて語り合い、大いに意気投合した。循が洛陽へ向かうと知り、翰は「私にも北の都に用事がある」と言い、そのまま同乗して出発し、家人に告げなかった。
- 斉王司馬冏が大司馬東曹掾に招いた。冏が権力を握っていた頃、翰は同郷の顧栄に「天下は乱れ、災難はまだ終わらない。天下に名声のある者は退くことが難しい。私はもとより山林の人間で、時勢に望みはない。あなたは明察をもって先を防ぎ、智謀をもって後を慮るべきだ」と語った。栄は彼の手を握り、悲しげに「私もあなたと南山で蕨を摘み、三江の水を飲みたいものだ」と言った。
- 翰は秋風が立つのを見て、故郷呉の菰菜・蓴羹・鱸魚の膾を思い出し、「人生で大切なのは自分の志にかなうことだ。どうして数千里の彼方で官に縛られ、名誉と爵位を求める必要があろうか」と言い、車を命じて帰郷した。『首丘賦』を著した(文は省略)。ほどなく冏が敗れると、人々は彼の先見の明を称えた。しかし府では彼が勝手に去ったことを咎め、官籍から名を除いた。
- 翰は自らの心に従って生き、当世の栄達を求めなかった。ある人が「あなたは一時の自由を楽しめるが、死後の名声は求めないのか」と問うと、「死後に名を残すよりも、今この瞬間の一杯の酒の方が良い」と答えた。当時の人々はその豁達さを重んじた。
- 至って孝行であり、母の喪に遭った際は礼を超えるほど悲しみ憔悴した。57歳で没した。文筆数十篇が世に行われた。