趙至
- 趙至、字は景真、代郡の人。洛陽に寓居した。緱氏県令が着任した際、13歳の趙至は母とともに見物した。母は「お前の先祖はもともと卑しい身分ではなかったが、世の乱れと流浪によって士卒の身分に落ちた。お前はこれを取り戻せるか」と語った。至はこの言葉に感じ、師について学んだ。父が耕作しながら牛を叱る声を聞いて書を投げ出し泣いたため、師が不思議に思って尋ねると、「私はまだ親を栄えさせることができず、老いた父にまだ労苦をさせている」と答え、師は感心した。
- 14歳で洛陽に赴き太学に遊学し、石経を書写していた嵆康に出会い、立ち去りがたく見入って姓名を尋ねた。康が「若いのになぜ尋ねる」と言うと、至は「あなたの風格が並外れているからです」と答え、康は感心して名を告げた。後に至は山陽まで康を追ったが会えずに戻った。さらに遠方への遊学を望んだが母に禁じられたため、狂気を装って三、五里を走り回り、そのたびに連れ戻された。
- 16歳で鄴に赴き再び康と出会い、康に従って山陽へ移り、名を浚、字を允元と改めた。康はいつも「お前は頭が小さく尖り、瞳の白黒がはっきりしている。白起(秦の名将)の風がある」と言った。康が没すると、至は魏興の太守張嗣宗を訪ね厚遇された。嗣宗が江夏相に転じると溳川まで随行し、呉へ渡ろうとしたが嗣宗が没したため、遼西に向かい戸籍を移した。
- 当初、至は康の甥の嵆蕃と親しく、遠方へ赴く前に蕃へ別れの書簡を送り、志を述べた。その内容は次のようなものであった。李耳(老子)が関を出る際に嘆じ、隠者が越に赴き山頂で長く歌ったという故事のように、隠遁の身でさえ未練を抱くのに、やむを得ず旅立つ自分の心中はなおさらであるとし、栄えある宴を離れ友人と別れ、荒涼とした旅路を進む孤独と困難――暁の出立から日暮れの野宿、嵐や険しい地形――を克明に描くが、これらの肉体的困難は真に恐れるものではないと述べる。むしろ蘭や桂のような芳しい才が痩せた土地に移され根付かぬまま危機にさらされること、すなわち自らの才が正当に評価されぬ地に流離い、孤立無援のまま危険に晒されることを恐れると説く。旅の孤独と疲労、望郷の悲しみを綴りつつ、後段では乱世を平定し天下を統一する壮大な志(龍が野で吼え、崑崙・泰山さえ覆すほどの気概)を語るが、時勢が己に味方せず、その才が発揮できぬことへの憤懣を吐露する。そして蕃を、恵まれた地位で栄達し華やかな交友に恵まれながらも自分たちのような苦難から生まれた志を共有できない者として対比し、遠い将来の再会を望みながらも、互いに操を守り浮薄な栄華に流されぬよう戒める言葉で結んでいる。
- 至は身の丈七尺四寸、議論は精緻で弁が立ち、縦横の才気があった。遼西郡から計吏に推挙されて洛陽に赴き、父と再会した。母は既に没していたが、父は至に立身を望み、母の死を告げず帰郷も禁じたため、至は遼西へ戻った。幽州から三度部従事に召され、九件の裁判を処理し、その精密さで称賛された。太康年間、優れた官吏として洛陽へ赴いて初めて母の死を知った。
- 当初、至は士卒の身分を恥じ、官途と学問によって名を立て親を栄えさせることを望んでいた。しかしその志が遂げられなかったことを知ると、慟哭し血を吐いて没した。時に37歳であった。