左思
- 左思、字は太沖、斉国臨淄の人。その祖先は斉の公族で左右公子の家系であったため、これを氏とした。代々儒学の家柄。父の雍は小吏から身を起こし、才能により殿中侍御史に抜擢された。
- 思は幼い頃、鐘繇・胡昭の書法と琴を学んだがいずれも上達しなかった。雍は友人に「思の理解力は私の若い頃に及ばない」と語った。思はこれに発奮して学問に励み、あわせて陰陽の術にも通じた。容貌は冴えず、口下手であったが、文辞は壮麗であった。人付き合いを好まず、ひたすら閑居を旨とした。
- 『斉都賦』を著し、完成に一年を要した。さらに三都(魏・蜀・呉の都)の賦を作ろうとしたところ、妹の芬が入宮したのに伴い都に転居し、著作郎の張載を訪ねて岷山・邛崍の地理を尋ねた。構想に十年を費やし、門・庭・垣・厠に至るまで筆と紙を置き、一句を得るたびに書き留めた。自らの見聞が広くないと考え、秘書郎への任官を求めた。
- 賦が完成しても当初世間の評価は低かった。思は自作が班固・張衡に劣らないと自負しつつも、人物の評価によって作品が埋もれることを恐れ、高名な安定の皇甫謐を訪ねて見せたところ、謐はこれを称賛し序文を書いた。張載は『魏都賦』に、劉逵は『呉都賦』『蜀都賦』に注をつけ序文を寄せ、司馬相如の『子虚賦』、班固の『両都賦』、張衡の『二京賦』と比較しつつこの賦の精緻な考証と的確な語義を高く評価した。陳留の衛権もまた『略解』を作り、その博識と厳密な典拠を称賛した。これ以降、世に大いに重んじられた。
- 司空張華はこれを見て「班固・張衡の流れをくむものだ。読む者を満足させながらもなお余韻を残し、何度読んでも新鮮である」と感嘆した。権門・富豪の家々が競って書き写したため、洛陽の紙の価格が高騰した(「洛陽紙貴」の故事)。
- 当初、洛陽に入った陸機もこの賦を作ろうとしていたが、左思が既に着手していると聞き、手を打って笑い、弟の陸雲に「ここに田舎者がいて『三都賦』を作ろうとしている。完成したら酒瓶の蓋にでもしてやろう」と書き送った。しかし左思の賦が世に出ると、陸機は感嘆し、自分には及ばないと考えて筆を折った。
- 秘書監の賈謐が『漢書』の講義を求めたが、謐が誅殺されると宜春里に退き、専ら典籍に没頭した。斉王司馬冏が記室督に任じようとしたが病と称して応じなかった。張方が都で暴虐を働くと一族を挙げて冀州に移った。数年後、病により没した。