晉書卷九十二 列傳第六十二 應貞

序――文苑列傳の趣旨

  • 文とは教化を成すものであり、これは聖人の高い意義である。行いを遠くに伝えるのは前史の格言である。洛水の瑞図・泰山の霊篆によって古の帝業が伝えられたように、文字の道が興り、鐘石の銘文が広まるにつれ、王化による風俗の教化、人倫における孝敬の重んじが進み、天地を経緯し天下を包括した。文の持つ時義はまことに大きく遠いものである。
  • 周の末に至り歌頌が盛んになり、荀子・宋玉の流れが源を遠くに発し、賈誼・司馬相如、班固・張衡らが後を継ぎ、いずれも第一人者と称された。魏の時代には文宗が興り、三祖(曹操・曹丕・曹叡)が高い調べを継ぎ、建安七子がその麗しさを分かち、『翰林論』がその精華を総括し、『典論』がその華やぎを詳述した。中でも陳王(曹植)は思いが風のように鋭く、典雅を極め、日月にも比すべき存在であった。
  • 晋の代になると文雅はいよいよ盛んになり、張載は銘山の美(山を刻むに値する名文)を誇り、陸機は筆を振るう奇才を発揮し、潘岳・夏侯湛が並び輝き、いずれも綺麗な文辞を尽くし、書庫を極め麗曲を集めた。その名声と事蹟は別伝に記される。応貞(吉甫)・左思(太沖)は江右(長江東岸)の才傑、曹毗・庾闡は中興期の英才である。彼らはみな玉のように美しく、山川の如く豊かで、先人の美を継ぎ後世に恩恵を残した。ここに文才に優れた者たちを撰び、『文苑』としてまとめる。

応貞

  • 応貞、字は吉甫、汝南南頓の人、魏の侍中応璩の子である。漢から魏にかけて代々文章で顕れ、冠位を世襲する郡の名族であった。貞は談論に優れ、才学で知られた。夏侯玄は高名であったが、貞が訪ねると玄は彼を大いに重んじた。
  • 高い試験に合格し、たびたび顕職を歴任した。武帝が撫軍大将軍であったとき参軍となり、帝の即位後は給事中に昇った。帝が華林園で宴を開き弓術を行った際、貞の賦した詩が最も優れていた。その詩は晋の建国の由来、天命による禅譲、龍の飛翔になぞらえた帝位、王化の広がり、天下泰平の様を讃え、さらに帝の徳と功、群臣・武臣が内外に協調し、遠方の異民族までもが朝貢に訪れる盛世の情景を詠み、射礼の意義(武を示しつつ荒亡を戒める)にも触れる長大なものであった。
  • 太子中庶子の官が初めて置かれた際、貞は護軍長史の孔恂とともにその任に就いた。後に散騎常侍に遷り、儒学の見地から太尉荀顗とともに新しい礼制を撰定したが、実施には至らなかった。泰始5年(269年)に没した。文集が世に行われた。
  • 弟の応純。純の子の応紹は永嘉年間、黄門郎に至ったが東海王司馬越に殺害された。純の弟の応秀、秀の子の応詹には別に列伝がある。