孔衍
- 孔衍、字は舒元、魯国の人、孔子の二十二世の孫である。祖父の文は魏の大鴻臚。父の毓は征南軍司。
- 衍は若くして学を好み、12歳で『詩』『書』に通じた。20歳で公府に辟召され、本州から異行直言の士に挙げられたが、いずれも応じなかった。江東に難を避け、元帝に安東参軍として起用され、専ら記室(文書事務)を掌った。文書の量は多かったが、衍はそのたびに職務をよく果たすことで知られた。
- 中興初年、庾亮とともに中書郎に任ぜられた。明帝が東宮にあったとき、太子中庶子を兼ねた。当時多くの制度が創始されたばかりであったが、衍は経学に深く博く、また旧典にも通じていたため、朝廷の儀礼・制度の多くは彼によって正された。これにより元帝・明帝の両帝から親愛された。
- 王敦が権力を専らにしていた頃、衍は密かに太子に「殿下は広く朝廷の賢才を招き、才俊を挙用し、時政を諮問して聖聴を広めるべきです」と進言した。敦はこれを聞いて衍を憎み、広陵郡に出させた。人々は衍のために肝を冷やしたが、衍は顔色に出さなかった。郡は西方の賊と隣接していたが、なお後進を教え導き、軍務にかまけて学問を廃することはなかった。
- 石勒がかつて山陽まで馬で来た際、部下に対し、衍は儒雅の士であるから郡境にみだりに立ち入ってはならぬと命じた。就任してわずか一年余り、太興3年(320年)に官にあって没した。享年53。
- 衍は文才で名を知られたわけではないが、博覧は賀循をも超え、著述はすべて百余万言に及んだ。
- 子の啓は廬陵太守に至った。
- 同族の孔夷吾は美名があり、博学では衍に及ばなかったが、世に対する声望では衍を上回った。元帝は主簿とし、後に参軍に転じ、次第に侍中に昇り、太子左衛率に移り、没後に太僕を追贈された。