晉書卷九十一 列傳第六十一 杜夷

杜夷

  • 杜夷、字は行斉、廬江灊の人。代々儒学で知られ、郡の名族であった。夷は若くして淡泊で節操を貫き、生活は貧しかったが産業を営まず、経籍・諸子百家の書を広く読み、暦算・図緯にまで通暁した。
  • 汝潁の間に寓居して十年間門を出なかった。40歳を過ぎて故郷に戻り、門を閉ざして教授し、生徒は千人に及んだ。
  • 恵帝の時代に三度孝廉に推され、州は別駕に召し、永嘉初年には公車で博士に召され、太傅・東海王の司馬越にも辟召されたが、いずれも応じなかった。
  • 懐帝が王公に賢良方正の推挙を命じた際、刺史の王敦は賀循を賢良に、夷を方正に推挙し、上疏して「臣が聞くところ、唐堯が広く問うたことで八元・八愷が時に登用され、漢の武帝は賢者を敬い俊才が応じ、それゆえよく時世の和を協えて盛んな教化を敷いた……太孫舎人の会稽の賀循、処士の廬江の杜夷はいずれも道を極め、俗を超えて清らかな節操を持ち、学識は広く才は実務に及ぶ。循は二県を治め功績を残し、東宮に仕えて忠実であった。夷は虚を守り俗を離れ、山谷に隠れて肥遁(隠棲)の生活を送っている。国家の宝であり、招聘すべき人材である。公車で招き、対策の問いに答えさせれば、必ずや忠実な良策で政道を大いに益するであろう」と述べた。
  • 敦はこれにより夷を洛陽へ強く促したが、夷は寿陽に逃れた。鎮東将軍の周馥は敬意をもって迎え、参軍に招いたが、夷は病と称して辞退した。馥は屈服させられないと知り、自ら夷を訪ね、住居を建て、医薬を提供した。馥が敗れると、夷は旧居に戻ったが、途中で兵乱に遭った。
  • 刺史の劉陶は廬江郡に「昔、魏の文侯は段干木の門前で車の横木に手をかけ敬意を表し、斉の宰相曹参は蓋公を尊崇した。いずれも賢者を優遇し徳を表すことで、俗を励ますためである。徴士の杜君は徳行清らかで、志高く、このたび道中で流離し困窮していると聞く。刺史たる者、道ある者を敬わず、高節の士にこのような苦難を味わわせるのは恥ずべきことである。今使者を遣わして慰問させる。郡は一人、県は五人の吏を出し、常に世話をし、市場の税収から家人の食糧を供給し、欠乏させないように」と告げた。
  • その後、胡族の侵攻により再び江を渡り、王導が使者を遣わして世話をさせた。元帝が丞相であったとき、教(命令書)に「今、大義は廃れ、礼典は宗を失い、朝廷の疑義を正せる者がいない。特に儒林祭酒の官を立ててこの事を弘めるべきである。処士の杜夷は俗を超えて情を寄せ、学才は精博、道行は優れている。夷を祭酒とせよ」とした。夷は病と称して朝会に出なかった。
  • 帝は夷を訪ねようとしたが、夷は万乗の君主が庶人の家を訪れるべきではないと述べた。帝は夷に書を送り「私と貴殿とは言葉を超えた仲であるが、久しく心を寄せてきた。ただ貴殿が病弱と聞くゆえに見舞いたいと思っただけで、通常の儀礼を論ずるものではない」と述べた。また国子祭酒にも任じた。
  • 建武年間、令に「国子祭酒の杜夷は貧に安んじ道を楽しみ、門を閉ざして静かに志を守り、日々の暮らしにも余裕がないさまは、あの原憲にも劣らない。穀二百斛を賜う」とあった。皇太子は三度夷の邸を訪れ、経典を学んだ。夷は召命に迫られながらも朝謁したことはなかったが、国に大政があれば必ず夷に諮った。
  • 明帝即位後、夷は自ら退官を願い出た。詔に「先王の道が地に落ちようとする中、貴殿は帷を垂れて思索に励んでおり、今の劉向・楊雄のようである。士人はその模範を仰いでいる。どうして高位から退くことを許せようか、朕にはよるべき者がなくなってしまう」とあった。
  • 太寧元年(323年)に66歳で没した。大鴻臚を追贈され、諡は貞子。臨終に際し、子の晏に「私は若くして仕官を望まず、召し出されたことはあっても冠や履物の飾りを身につけたことはない。角巾・素衣で普段着のまま殯し、葬儀は簡素を旨とし、いたずらに人と異なることを求める必要もない」と遺言した。著書『幽求子』二十篇が世に行われた。
  • 晏は蒼梧太守に至った。夷には兄弟が三人あった。兄の崧、字は行高、彼もまた志節を持ち、恵帝の時代、世に浮薄な風が多かったため『任子春秋』を著してこれを風刺した。弟の援は高平相。援の子の潜は右衛将軍となった。