晉書卷九十一 列傳第六十一 氾毓
氾毓
- 氾毓、字は稚春、済北盧の人。代々儒学の家柄で、九族との親睦を篤くし、青州に寄留し毓の代で七代目となり、当時の人は「子に定まった父はなく、衣に定まった持ち主はない」(一族で共有する暮らしぶり)とその家を評した。
- 毓は若くして高い節操を保ち、貧しくとも志を持った。父の死後、墓所に三十余年住み、朔・晦(月の初めと終わり)には自ら墓を掃除し、樹木の手入れをし、家に帰れば門から出なかった。武帝に推薦されて南陽王文学・秘書郎・太傅参軍に召されたが、いずれも応じなかった。
- 当時青州の隠逸の士である劉兆・徐苗らはみな教授に努めたが、毓だけは門人を蓄えず、静かに自らを守った。古を好み徳を慕う者が訪ねてくると、心を開いて教え導き、一端を示した。
- 三伝(春秋の左氏・公羊・穀梁)を合わせて解注を作り、『春秋釈疑』『肉刑論』を著し、著述は合わせて七万余言に及んだ。71歳で没した。