虞喜
- 虞喜、字は仲寧、会稽余姚の人、光禄大夫虞潭の同族である。父の虞察は呉の征虜将軍。
- 喜は若くして操行を立て、博学で古を好んだ。諸葛恢が郡太守として赴任した際、屈して功曹とした。孝廉・秀才・司徒の辟召、いずれも応じなかった。元帝が江左に初めて鎮した際、上疏して喜を推薦した。懐帝即位後、公車で博士に召されたが応じなかった。同郷の賀循は司空となった後も先達として喜のもとをたびたび訪れ、宿泊して帰るのを忘れるほどで、「自分には彼の底が測れない」と自ら語った。
- 太寧年間、臨海の任旭とともに博士に召されたが応じなかった。改めて詔が下り、「教化と政治の興隆は道教(儒教)を崇めることに勝るものはない……乱世以来、儒雅の道は衰え、『詩経』の子衿の篇を読むたびに慨嘆せずにいられない。臨海の任旭、会稽の虞喜はともに操を清らかに保ち、歳寒にも変わらず、経典を精しく究め、今にあって古の道を行っている。志操は俗を励ますに足り、博学は道を明らかにするに足る。先には至らなかったが、改めて博士として召す」とした。喜は病と称して赴かなかった。
- 咸和末年、詔により公卿が賢良方正直言の士を推挙することになり、太常の華恆が喜を賢良に推挙したが、折しも国に軍事があり、実施されなかった。
- 咸康初年、内史の何充が上疏し、「臣が聞くところ、二人の八元・八愷が挙げられて四門が和み、十人の乱を治める臣が用いられて天下は安んじた……前の賢良、虞喜は天より賢徳を授かり、俗世を超えて高く志し、若くして節を立て白髪に至るまで倦まず、加えて広く深く学び、博聞強識で堅きを鑽り微を研く努力を怠らず、静に処し道を味わい俗塵の志を持たない。蒲輪(賢者を迎える車)で招くべきである。それは大化を助け、また薄俗を励ます二つの利がある」と述べた。上奏の結果、詔に「尋陽の翟湯、会稽の虞喜はともに道を守り清貞であり、世務を営まず学に励み高尚、行いは古人に擬えられる。これまで召命に応じなかったのは、素絲が染まりにくいように、招く礼が簡略すぎたのではないか。政道には賢者が必要であり、朝廷に迎えるべきである。ともに散騎常侍として召せ」とあった。しかし再び応じなかった。
- 永和初年、有司が十月の殷祭(合祀)に際し、京兆府君の位を遷して祧室に移すべきこと、征西・豫章・潁川の三府君の位牌を初めて撤するべきかについて内外で議論が決しなかった。当時喜は会稽におり、朝廷は使者を遣わして意見を求めた。それほど重んじられていた。
- 喜は経伝に専心し、また讖緯にも通じ、『安天論』を著して渾天説・蓋天説を論難し、また『毛詩略』を解説し、『孝経』に注し、『志林』三十篇を著した。著述はすべて合わせて数十万言に及び、世に広く行われた。76歳で没し、子はいなかった。弟の虞豫には別に列伝がある。