晉書卷八十七 列傳第五十七 涼武昭王李暠(字玄盛)

諱は暠、字は玄盛、隴西成紀の人。漢の前将軍李広の十六世孫。呂光配下の段業に仕えたのち自立し、河西で涼公を称して西涼を建国した(?–417年)。子の李歆(涼後主)が跡を継いだが敗死し、建国から二十四年で滅んだ。

年表(3件)
  • 隆安四年晋昌太守唐瑤らに大都督・大将軍・涼公・秦涼二州牧に推戴されて自立し、庚子の年号を建てる
  • 義熙元年(建初と改元)東晋へ密使を送り上表し、独自に建初の年号を立てたことを詫びる
  • 義熙十三年薨去、享年六十七。武昭王と諡され太祖と号された

涼武昭王李暠――出自と敦煌太守就任

  • 諱は暠、字は玄盛、小字は長生、隴西成紀の人。姓は李氏、漢の前将軍李広の十六世孫にあたる。李広の曾祖仲翔は漢初の将軍で羌族討伐に死し、子の伯考が狄道に葬って以来、代々西州の名門であった。高祖雍・曾祖柔は晋で郡守を歴任し、祖父李弇は張軌に仕えて武衛将軍・安世亭侯となった。父の李昶は早世し、暠は遺腹子として生まれた。
  • 幼くして学を好み、沈着で寛和、経史に通じ文才があった。長じて武芸も習い孫呉の兵法を誦した。呂光の太史令郭黁が同母弟の宋繇と共に暠と同宿した際、「李君には国を興す運がある」と予言したという逸話がある。
  • 呂光の末年、京兆の段業が涼州牧を自称すると、暠は効穀令に任じられた。上官の孟敏の死後、敦煌護軍郭謙・沙州治中索仙らは暠の温厚な政治を評価して甯朔将軍・敦煌太守に推した。暠は宋繇の説得で承諾し、まもなく冠軍将軍に進んで段業に臣従した。業は暠を安西将軍・敦煌太守・護西胡校尉とした。

涼武昭王李暠――段業配下での自立

  • 段業が涼王を僭称すると、右衛将軍索嗣が暠を讒言し、嗣自身が敦煌太守として五百騎を率いて赴任しようとした。暠は迎えようとしたが、効穀令の張邈・宋繇に「呂氏は衰え段業は暗弱、これは英豪が立つべき好機だ」と諫止され、宋繇の偵察報告(嗣は驕り兵は弱い)を受けて反撃を決意。子の李士業・李譲らに命じて索嗣を破り、嗣は張掖へ敗走した。
  • 暠は索嗣と刎頸の交わりを結んでいたため深く恨んだが、業も嗣を憎んでいた将且渠男の勧めで嗣を殺し、暠に謝罪の使者を送った。敦煌郡の一部を分けて涼興郡を置き、暠を持節・都督涼興以西諸軍事・鎮西将軍・護西夷校尉に進めた。赤気や龍跡といった瑞祥が現れたと伝わる。

涼武昭王李暠――涼公自立と建初改元

  • 隆安四年、晋昌太守唐瑤が六郡に檄を回し、暠を大都督・大将軍・涼公・領秦涼二州牧・護羌校尉に推戴した。暠は境内を赦し、庚子の年号を建て、祖父弇を涼景公、父昶を涼簡公と追尊し、多数の官職を配して東方経略の拠点とした。宋繇らを東に派遣して涼興を討ち、玉門以西を平定して屯田を広げた。
  • 呂光が于闐から求めた六璽の玉が敦煌に届き、南門外に靖恭堂を建てて朝政を議し武事を練った。聖帝明王・忠臣孝子の像を掲げ、暠自ら序頌を作った。泮宮を立て高門学の学生五百人を増やした。
  • 義熙元年(建初と改元)、舎人黄始・梁興を東晋に密使として送り、長文の上表を奉った。上表では晋の高祖以来の正統と西平武公張軌以来の涼州の忠節を述べ、竇融の故事に倣って大都督・大将軍・涼公・秦涼二州牧・護羌校尉を自ら称したことを説明し、正朔が届かぬ辺境ゆえ独自に建初の年号を立てたことを詫びた。
  • 暠は群臣に「河西統一を目指し都を酒泉へ遷す」と諮り、張邈の賛同を得て張体順に楽涫を守らせ、宋繇を右将軍・敦煌護軍とし子の李譲と共に敦煌を守らせて酒泉へ遷都した。子らへの訓誡(節酒慎言・賞罰の公正・驕らぬこと等を説いた長文の家訓)を残した。敦煌の民情を厚く評価する文も記される。

涼武昭王李暠――対外関係と晩年

  • 娘の李敬愛を外祖尹文に預けていたが、東遷後は姑の梁褒の母に養わせた。禿髪傉檀が北山を通る際、鮮卑が敬愛を酒泉に送り届け通好した。暠も使者を送り返礼した。且渠蒙遜が建康を侵し三千余戸を掠めると、暠は自ら騎兵二万を率いて追撃し彌安で大破、掠奪された民を取り戻した。
  • 苻堅の建元末、江漢の移民一万余戸や中州の農民七千余戸が敦煌に移されており、郭黁の乱による避難民も併せて酒泉に集住させ、南人五千戸を会稽郡、中州人五千戸を広夏郡、残り一万三千戸を武威・武興・張掖の三郡に分置した。敦煌南の子亭に城を築き南方の異民族に備えた。沙門法泉を使者として再び東晋に上表し、酒泉進駐後の戦況や、世子李士業・次子李譲への軍事委任を報告した。
  • 酒泉遷都後は農耕を奨励し、豊作が続いたため石碑を刻んで頌徳を記した。且渠蒙遜の侵寇は絶えなかったが、暠は徳による感化を志し盟を結んで対応した。白狼・白兔など瑞祥が続いたと伝わり、世子李士業が蒙遜を撃退した記録もある。
  • 曲水の宴で群臣に詩を賦させ、諸葛亮の訓誡を引いて子らを戒めた文が記される(若くして重責を負う子らを励ます内容)。敦煌の旧塞を東西南北に修築し防備を固めた。
  • 呂氏滅亡後の混乱に乗じ河西統一を志した暠であったが、禿髪傉檀が姑臧に拠り、且渠蒙遜も勢力を広げたため、志半ばを嘆いて長編の《述志賦》を著した(隠遁への憧れと乱世での使命の間の葛藤、劉備・諸葛亮・関羽張飛ら三国の英雄への憧憬、涼州平定への決意などを綴った賦)。
  • 病床にあった暠は宋繇に「一同河右を果たせなかったことが心残りだ。世子の輔導を頼む」と遺言した。義熙十三年に薨去、享年六十七。国人は武昭王と諡し、廟号を太祖とした。
  • 河西では楸・槐・柏・漆が育たないとされていたが、酒泉宮西北隅に槐が育ち、暠は《槐樹賦》を著してこれを喜んだ。兵乱の中で《大酒容賦》も著した。辛景・辛恭靖と親交があり、彼らが東晋に帰順して江南で殺されたことを悼んだ。先妻辛氏(貞淑な婦人)にも誄を作った。詩賦数十篇を残した。世子李譚は早逝し、次子李士業が跡を継いだ。

涼後主李歆(字士業)――即位と諫言

  • 諱は歆、字は士業。李暠の死後、府僚に大都督・大将軍・涼公・涼州牧・護羌校尉として推戴され、嘉興と改元した。母尹氏を太后とし、宋繇を武衛将軍・広夏太守等に、索仙を征虜将軍・張掖太守とした。
  • 且渠蒙遜の張掖太守且渠広宗が偽って降ると偽り、士業自ら大軍を率いて対応。蒙遜は蓼泉に伏兵を置いたが、士業は自ら甲を貫いて先陣に立ち大破し、七千余級を斬った。翌年も蒙遜が侵攻したが、左長史張体順の諫言で出撃を控え、蒙遜は秋の収穫を刈って撤退した。この功で東晋から鎮西大将軍・酒泉公を授けられた。
  • 士業は刑罰が厳しく築城工事も止まなかったため、従事中郎張顕が「天候不順・民力の疲弊は苛政のせいだ」と諫めた。主簿氾稱も長文の上疏で、度重なる天変地異(謙德堂の陥没、地震、日食様の異変、狐の出現等)を歴史的先例と重ねて警告し、質素な政治と国力の蓄積を説いたが、士業は容れなかった。

涼後主李歆――東征と滅亡

  • 士業が即位して四年、南朝宋が禅譲を受けると、士業は東征を計画したが張体順に諫められ中止した。蒙遜が南方の禿髪傉檀を討つと聞き、張掖攻撃を企てたが、母の尹氏・宋繇が固く諫めても聞かず出兵した。宋繇は「大事は去った。出陣する軍を見送るが、帰る軍は見られまい」と嘆いた。
  • 士業は三万の兵で東征したが、都瀆澗を経て懐城で蒙遜に敗れた。左右は酒泉への撤退を勧めたが、士業は「太后の教えに背いてここまで来て、この敵を討たずに帰れば母に顔向けできない」と再戦し、蓼泉で敗死した。弟たち(酒泉太守翻・新城太守預・羽林右監密・左将軍眺・右将軍亮ら)は敦煌に逃れ、蒙遜は酒泉に入った。
  • 士業の死の前兆として、大蛇の出現、雉の乱舞、烏鵲の争い、令狐熾の夢(「南風が木を吹き、桐椎(士業の小字)は轂に中らず」)が語られる。
  • 翻・恂兄弟は敦煌を捨てて北山に逃れたが、蒙遜の任じた敦煌太守元緒が失政を重ねたため、郡人宋承・張弘が翻の弟恂を迎え入れ冠軍将軍・涼州刺史に推した。蒙遜は世子德政を派遣して攻め、水攻めの末に城を陥落させた。士業の子重耳は江左に逃れ宋に仕え、のち魏に帰し恆農太守となった。翻の子宝らは姑臧に移されたが後に伊吾へ逃れ魏に帰した。尹氏と娘たちは伊吾で死んだ。
  • 李暠は安帝隆安四年に自立し、宋の少帝景平元年に滅亡するまで、河右を治めること凡そ二十四年であった。

史論

  • 史臣曰く、王者が図籙を受けるには代々の徳の蓄積が必要である。涼武昭王李暠は英姿卓抜で、陰陽の理を用いて武を修め、その応変の道は神のごとく、五郡を治めて藩を称し三分の地を屈して晋室に順った。詩に秦仲を讃えた後、その子孫が天下平定の業を建てたように、また公劉を頌えた後の子孫が天と並ぶ祚を興したように、これらはいずれも徐々に積み重ねられた基盤の上に成った事業である。李暠の事績もこれと同じく、代々の功徳の蓄積によるものであろう。

  • 賛にいう、武昭王は英知に優れ、忠勇にして世に覇たり。王室は微弱であったが、その誠は絶えることなかった。遺された民はその徳を慕い、辺境の地もその恵みに浴した。積み重ねた福祉が礎となり、子孫を栄えさせた。