晉書卷八十八 列傳第五十八 孝友
序
- 孝は人倫の徳の根本であり、国に用いれば天地を動かして瑞祥を招き、家に行えば鬼神を感じさせて福をもたらす。親孝行を尽くし、遠く先祖を追慕する心、そして身を正しく立てる道が、これに続く。
- 晋代は中朝より江左に至るまで、多くの災難があったが、孝悌の徳を持つ人物は絶えなかった。王偉元(王裒)・許季義(許孜)・夏方・盛彦、庾袞・顔含らの兄弟愛に篤い人々、その他の人材も皆美徳を示した。それらの遺風を集めて風俗を励ますため、《孝友篇》を著す。
李密――出自と孝行
- 字は令伯、犍為武陽の人、一名虔。父は早世し、母は改嫁した。幼くして病を得たが、祖母劉氏に育てられ孝謹で知られた。劉氏の病には夜も衣を脱がず看病し、譙周に師事して学問を修めた。
- 蜀に仕えて郎となり、呉への使者として弁舌で知られた。蜀の平定後、泰始初年に太子洗馬に召されたが、祖母の養育を理由に固辞し、有名な「陳情表」を上奏した。表では自らの孤独な生い立ちと祖母への深い恩を切々と述べ、「祖母がいなければ今日の私はなく、私がいなければ祖母の余生を全うできない。孝養の期間を優先させてほしい」と訴えた。武帝はこれに感銘を受け召命を停止した。
- 祖母の死後、服喪を終えて再び太子洗馬として召し出された。司空張華との問答では、蜀漢の後主劉禅を「斉桓公に次ぐ」と評し、諸葛亮の統治の是非を論じるなど機知に富んだ受け答えをした。
- 温令に出た後、権勢者への不満を漏らした書簡が問題となり免官された。二子(賜・興)を残して家で没した。賜は文才があったが早世、興も文才があり、羅尚・劉弘に仕えた。
盛彥――孝行と失明した母の回復
- 字は翁子、広陵の人。八歳で呉の太尉戴昌に慷慨たる詩で応じるほどの才があった。母王氏が病で失明すると出仕を断って自ら看病した。婢が母を虐待した末に蠐螬(幼虫)を焼いて食べさせたが、母が異変に気づいて彦に見せると、彦は母を抱いて号泣し、母の目は開いて回復した。呉に仕えて中書侍郎に至った。
夏方――墓側の廬居
- 字は文正、会稽永興の人。疫病で一族十三人を失い、十四歳で日夜哭泣・土運びを続け十七年かけて葬送を終え、墓側に廬して松柏を植えた。呉で仁義都尉、晋で高山令を務め、罪人にも涙して罰を加えなかった。享年八十七。
王裒――父の非命と墓前の哀慟
- 字は偉元、城陽営陵の人。父の王儀は司馬昭に「敗戦の責は元帥にある」と直言して斬られた。裒は父の非業を悼み、朝廷に仕えず隠棲し、墓側に廬して朝夕拝跪し、柏の木が涙で枯れるほど哀慟した。母が雷を恐れたため、母の死後も雷が鳴るたびに墓へ行き「裒はここにいる」と告げた。門人は『詩経』蓼莪篇を読むのを避けたという。
- 生活は質素で人の助けを受けず、旧知の贈り物も受けなかった。管彦との縁談を巡る逸話(彦の死後、洛陽に葬られた縁で娘を再嫁させた理由を説明)や、才を恃んで身を持ち崩した邴春への評(人は善道に帰することを期すべし)も伝わる。洛陽陥落の際、一族が避難する中、墓を離れられず賊に殺された。
許孜――師と両親への喪
- 字は季義、東陽吳寧の人。師の孔沖の喪に三年の喪礼を尽くし、両親の死後は自ら土を運んで墓を築き、二十年余り墓側で暮らして松柏を植え続けた。鹿がその木を害した際に嘆いたところ、鹿が猛獣に殺されているのを見て塚を作って葬るなど、鳥獣にまつわる感応の逸話が多い。享年八十余で没し、郷里は「孝順里」と呼ばれた。太守張虞の上奏により門閭が旌表され、子孫は賦役を免ぜられた。
庾袞――疫病の看病と自治の指導
- 字は叔褒、明穆皇后の伯父。咸寧年間の疫病で兄二人が死に、次兄も危篤となったが、家族が避難する中ひとり残って看病を続け、自身も感染しなかった。父の死後は貧しさの中で母を養い、二人の妻(荀氏・楽氏)も共に貧苦を分かち合った。
- 飢饉の年には自分の食を隠して門人に分け与えるふりをし、麦の落穂拾いでも譲り合いの規範を示した。墓の柏を伐られた際には自らを責め、以後誰も犯さなくなった。孤児や寡婦を厚く遇し、姪の嫁入りには自ら箕帚を作って教訓を与えた。
- 酒に酔った過ちを父の墓前で自ら杖打ちして詫び、拝礼の作法にも厳格な信念を持った(他人の親に安易に拝礼しない理由を語った)。斉王冏の乱の際には禹山に一族を率いて避難し、規律ある自治組織を作って賊を退けた。「臨事而懼、好謀而成」の評を得た。
- 後に林慮山に移り、更に大頭山へ移って避難生活を続けたが、収穫の際に崖から落ちて没した。詩書に通じ、宗族郷党から篤く敬われた。四子(怞・蔑・澤・捃)を残した。
孫晷――貧しくとも礼を尽くす
- 字は文度、呉国富春の人。幼くして品格があり、貧を厭わず耕作しながら学問を続けた。父母への孝養、兄の看病、貧窮者への施しなど篤実な行いで知られ、会稽の虞喜の姪を妻に迎えて「梁鴻夫婦」と称された。仕官を求められたが応じず、三十八歳で急死し、朝野に惜しまれた。葬儀に現れた謎の老人の逸話も伝わる。
顔含――兄の蘇生と嫂の看病
- 字は弘都、琅邪莘の人。兄の畿が誤診で死んだ後、棺の中で蘇生の兆しを示す不思議な出来事が続き、含が主張して開棺したところ蘇生した。以後十三年間、家業を顧みず看病に専念した。石崇の贈り物も看病の意義に反すると断った。
- 両親と二人の兄を失った後、失明した嫂を看病し、蛇の胆を求めて薬を作る際、青衣の童子(実は仙人の化身とされる)から胆を得たという逸話が伝わる。
- 官途では上虞令・東陽太守などを歴任し、蘇峻討伐の功で西平県侯に封ぜられた。呉郡太守として王導に善政の方針(民力回復優先)を説き、「顔公在職、呉人斂手す」と評された。王導への礼遇を巡る問答でも媚びない姿勢を貫き、桓温の求婚も辞退した。人物評でも公正な判断を示した。享年九十三で没し、諡は靖。
劉殷――至孝と感応の逸話
- 字は長盛、新興の人。七歳で父を失い喪に服した。曾祖母が冬に堇(野菜)を欲しがった際、泣いて祈ると堇が生じたという逸話、夢のお告げで粟を得たという逸話が伝わる。博学で志高く、司空齊王攸らの招聘も祖母の養育を理由に固辞した。張宣子の娘を娶り、妻も孝養を尽くした。
- 楊駿の招聘にも母の老齢を理由に固辞したが優遇された。斉王冏の招聘には「先王は堯舜、殿下は今その厳しさで臨まれる」と応じ、新興太守として善政を敷いた。永嘉の乱で劉聡に仕え、侍中・太保に至った。子孫に経書を分けて学ばせ、一門から多くの学者を輩出したと伝わる。
王延――継母への孝と非業の死
- 字は延元、西河の人。九歳で母を失い、継母卜氏に虐待されても事母の礼を怠らなかった。冬に魚を求められ叩かれても、氷を割いて祈ると魚が跳ね出たという逸話で継母の心を動かした。貧しい生活の中で学問を修め、劉聡に仕えて金紫光禄大夫に至ったが、靳準の乱に与せず殺された。
王談――父の仇討ち
- 呉興烏程の人。十歳で父を鄰人竇度に殺され、十八歳の時に密かに仇を討った。自首したが太守孔岩がその孝勇を義として赦した。後に孔岩の遺族の墓を守り続け、孝廉に推挙されたが辞退して家で没した。
桑虞――厳格な自己抑制
- 字は子深、魏郡黎陽の人。父沖は河間王顒の専横を見抜いて早くに退いた。虞は十四歳で父を失い、藜藿だけの粗食で喪に服した。園の瓜を盗んだ者への寛容な対応、旅先での窃盗疑惑を甘んじて受け入れた逸話が伝わる。石勒配下となった兄たちと違い、仕官を避けようとしたが母の喪の後、青州刺史の招きに応じた。しかし刺史職を固辞し「功名は我が志にあらず」として境外との交渉を絶ち、官のまま没した。
何琦――貧を厭わぬ学者
- 字は万倫、司空何充の従兄。十四歳で父を失い喪に服した。母への孝養のため官についたが、母の喪に際して火事から棺を守った逸話が伝わる。以後は仕官を退けて典籍に親しみ、《三国評論》など多くの著作を残した。王導・陸玩・桓温らの招聘もすべて固辞し、桓温に「止足の人」と評された。享年八十二。
吳逵――貧窮の中の埋葬
- 呉興の人。飢饉と疫病で一族十三人を失い、貧窮のうちに一年かけて七つの墓と十三の棺を自作した。贈り物は一切受けず、太守張崇に礼遇された。
史論
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史臣曰く、親を尊び友愛を尽くす道は礼経の明訓であり、詩人の美談でもある。盛彦(翁子)は生来の才と至誠で母の目を開かせ、王裒は隠棲して礼を尽くし、柏樹と雷鳴がその誠を示した。許孜の学識と喪礼、庾叔褒(袞)の勤勉と節操、孫晷の篤実、王談の復仇、劉殷の至孝と感応、王延の氷を叩いて魚を得た逸話は、いずれも古今稀な徳行である。他の人々も皆、清風高節をもって同じ志を体現している。
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賛にいう、徳のあるところ、天地の感応がある。孝を尽くした王氏・許氏らは、永く慕われる存在である。柏を涙で凋ませ、鷹の巣を対に迎えた。李密・盛彦・夏方・庾袞は生来の至誠を示し、孫文度・顔弘都は篤実な行いを積んだ。孝友の徳は歌に詠まれ光り輝く。鳩は劉長盛(殷)に懐き、魚は王延元に応じた。王談・桑虞の義、何琦・呉逵の道もまた、共に語り継がれるべきものである。