晉書卷八十五 列傳第五十五 魏詠之

貧しさと不屈の志

  • 魏詠之、字は長道、任城の人。家は代々貧しく、自ら耕作を業としながらも学を好み倦むことがなかった。生まれつき兔缺(口唇裂)であった。ある人相見の達人が「あなたはいずれ富貴になる」と言った。年十八の頃、荊州刺史殷仲堪の帳下に名医がいてこれを治療できると聞き、貧しくて旅装もなかったが、家人に「これほどの醜さで生きて何になろうか」と言い、数斛の米を携えて西へ殷仲堪の下へ向かった。到着すると自ら門を叩き来意を告げた。殷仲堪はこれと語り、その意気の盛んさを嘉して医者に診させた。医者は「割いて補うことができる、ただし百日粥を食べ続け、話したり笑ったりしてはならない」と言った。魏詠之は「半生を語らずにいれば、残りの半生を得られる、まして百日ならなおさらだ」と答えた。殷仲堪は魏詠之を別屋に住まわせ医者によく治療させた。魏詠之は口を閉ざして語らず薄い粥だけを食べ、その意志の堅さはこのようであった。治療が終わると殷仲堪は厚く物資を持たせ送り出した。

劉裕への協力と晩年

  • 初め州主簿となり、かつて桓玄に会った。退出後、桓玄はその精神が優れないことを軽んじ、座客に「凡庸な精神に立派な体躯を宿しても、大成する器ではない」と言った。結局用いることなく去らせた。魏詠之は早くから劉裕と交わりが深く、桓玄が帝位を簒うと義謀に協力した。桓玄が敗れると建威將軍・豫州刺史を拝命した。桓歆が曆陽を侵すと魏詠之は衆を率いてこれを撃退した。義熙初、征虜將軍・吳國內史に進み、まもなく荊州刺史・持節・都督六州に転じ南蠻校尉を領した。魏詠之は貧賤の頃も貧しさを恥じることなく、顕位に就いてからも富貴で人を驕ることがなかった。もと殷仲堪の客であった身が、まもなくその位を踏襲したことは議者に称賛された。まもなく官で卒した。詔があった。「魏詠之は器宇弘劭にして識局貞隱、共に事を成す誠は実に王府に銘記される。政の功績はその恵みを人々に垂れた。にわかに世を去り、心が痛む。太常を贈り散騎常侍を加える」。のちにその義挙の功が記録され江陵縣公を追封され食邑二千五百戸を賜り、桓の諡を贈られた。弟の魏順之は琅邪內史に至った。

史論

  • 史臣曰く、私が古来の太平の教化を観るに、必ず正しい人物を杖とし、非常の大業は奇士なくして成し得ない。晉が衰え乱れた時代、桓玄が僭擅(帝位を僭称)した時代にあたり、外に桓文(斉桓公・晉文公)の輔けなく内に平勃(陳平・周勃)の助けもなかった、雄傑がいなければこの難をどう救えたであろうか。この数子(劉毅・諸葛長民・何無忌・檀憑之・魏詠之)は気概が当代を蓋い才は世を経るに足りた。衰運が尽きた運命にあいながら、義熙が天啓を開いた資運に乗り、大功を立てることは輪を転がすように容易く、群凶を翦り伏せることは朽木を裂くようであった、勢いは百辟(諸侯)を傾け、禄は萬鐘を極めた、これもまた丈夫の盛事であろう。しかし希樂(劉毅)は驕慢に陵じて速やかに禍を招き、諸葛長民は驕淫によって釁(すきま)を成し、宋を造って(劉宋建国を助けて)同德に背き晉を復して純臣に異なった、その謀は良からず自ら滅びを招いたのである。何無忌は功名の大志を懐き文武の良才を発揮し、旧を追って感じ入り時人を感動させ、義に率いて響きが強敵を震わせ、機に因って効を奏し死に処しても懦さを見せなかった、これを先の輩に比べれば、どうして同日に語れようか。
  • 贊に曰く、劉生(劉毅)は剛愎、葛侯(諸葛長民)は凶恣であった。患いは満盈に結び、禍は疑貳(不信)に生じた。安成(何無忌)は英武にして、この忠烈を体現した。家を舍てて義に殉じ、生を忘れて節を存した。檀(檀憑之)はまことに威を稜(かど立てて発揮)し、身は隕(お)ちても名は飛んだ。魏(魏詠之)はついに契りを協にし、績を効して輝きを揚げた。