晉書卷八十五 列傳第五十五 檀憑之

王恭配下からの義挙

  • 檀憑之、字は慶子、高平の人。若くして志と力があり、閨門(家庭)は厳粛で世に称えられた。從兄の子である檀韶兄弟五人はみな幼くして孤児であったが、檀憑之は自分の子のように養育した。初め会稽王驃騎行參軍となり、桓修の長流參軍に転じ東莞太守を領し甯遠將軍を加えられた。劉裕とは州閭(郷里)の旧交があり、しばしば東征を共にし親交は深かった。義旗が挙がると、檀憑之は劉毅とともに私的な喪中でありながら墨絰(喪服のまま従軍すること)で駆けつけた。才望は劉毅に劣ったが官の序列と威声はこれを上回ったため、劉裕は檀憑之を建武將軍とした。劉裕が義挙を計画していた頃、何無忌・魏詠之とともに檀憑之の下で会合したことがあった。折しも人相見の達人である晉陵の韋叟が檀憑之を見て大いに驚き「あなたには急な兵の厄がある、その兆候は三四日を出ない、深く身を隠して避けるべきで軽々しく出てはならない」と言った。桓玄の将皇甫敷が羅落橋に至った際、檀憑之は劉裕とそれぞれ一隊を率いて戦い、軍は敗れ皇甫敷の軍に害された。冀州刺史を追贈された。義熙初、詔があった。「善を旌し功を紀すことは国の通典であり、没しても朽ちないことは節義の篤い行いである。故冀州刺史檀憑之は忠烈果毅にして身を亡くして国に尽くした。義はその情に敦く、危に臨んで命を授けた。その心跡を考えれば古人でもこれを遠く超える者はいない、近ごろの贈位ではなお及ばぬところがある。散騎常侍を加贈し、本官はそのままとする。既に身を王事に隕したのであるから、また追って封賞を論ずるべきである。曲阿縣公に封じ、邑三千戸を賜る」。