晉書卷八十四 列傳第五十四 楊佺期

楊佺期、弘農華陰の人、漢の太尉楊震の後裔。沈勇果敢な武人で、洛陽防衛や苻堅軍撃退で功を挙げ都督雍州となったが、江を渡ったのが遅く名族に軽んじられたことを恥じ続けた。殷仲堪・桓玄と結んで王恭に呼応したが、のち桓玄に敗れ兄楊廣とともに殺された(?–399年)。

年表(3件)
  • 咸康年間衆を率いて成固に屯し、苻堅の将潘猛の守る康回壘を撃退
  • 隆安三年399年桓玄がついに兵を挙げて楊佺期を討とうとし、先に殷仲堪を攻める
  • 隆安三年399年殷仲堪に兵糧があると欺かれて出兵するも桓玄に敗れ、兄楊廣とともに殺される

家柄の誇りと軍功

  • 楊佺期、弘農華陰の人、漢の太尉楊震の後裔。曾祖の楊准は太常。楊震から楊准まで七世にわたり名徳があった。祖の楊林は若くして才望があったが乱に遭い胡に没した。父の楊亮は若くして偽朝(前秦か)に仕え、後に帰国し梁州刺史で終わり、貞幹(正しく堅実)で知られた。楊佺期は沈勇果敢であったが、兄の楊廣・弟の楊思平らはみな強く粗暴であった。自ら門地が江表に比ぶべきものがないと言い、その門地を王珣と比する者があってもなお恨みを抱いた。当時の人々は楊佺期が江を渡ったのが遅く、婚姻や官途で名族の類に及ばないとしてしばしば軽んじたため、常に慷慨として歯噛みし、機会をとらえて志を遂げようとした。

洛陽防衛から都督雍州へ

  • 楊佺期は若くして軍府に仕えた。咸康年間、衆を率いて成固に屯した。苻堅の将潘猛が康回壘を守っていたのを楊佺期は撃退し、その衆はことごとく降り、廣威將軍・河南太守を拝命し洛陽を守った。苻堅の将竇沖が平陽太守張元熙を皇天塢で攻めた際、楊佺期はこれを撃退した。楊佺期は湖城から潼関に入り、幾度も戦って勝利を収め斬獲は千を数え、九百余家を降し洛陽に帰し、龍驤將軍に進んだ。病により新野太守に改められ建威司馬を領した。唐邑太守に遷り石頭軍事を督したが、疾病により去職した。荊州刺史殷仲堪が司馬に招き、江績に代わって南郡相となった。
  • 殷仲堪と桓玄が兵を挙げて王恭・庾楷に応じた際、殷仲堪は元来軍略に疎く軍旅の事はすべて楊佺期兄弟に委ね、兵五千を前鋒とし桓玄と相次いで下った。石頭に至ると王恭は死に庾楷は敗れ、朝廷はまだ桓玄の軍の動向を測れず、楊佺期を郗恢に代えて都督梁雍秦三州諸軍事・雍州刺史とした。殷仲堪・桓玄もいずれも任地を変えられ、共に尋陽に戻り盟を結び詔を奉じなかった。まもなく朝廷が殷仲堪を本職に復すと、それぞれの鎮に戻った。

雍州の平定

  • 当初、桓玄はまだ詔を奉じない段階で自ら雍州となり、郗恢を廣州にしようとしていた。郗恢は桓玄の来襲を恐れ衆に問うと、みな「楊佺期が来るなら誰が力を尽くさぬ者があろうか、もし桓玄が来るなら敵しがたい」と答えた。郗恢は楊佺期が自分に代わると知ると、南陽太守閭丘羨と謀って兵を挙げ抵抗しようとした。楊佺期は事が成就しないと考え、桓玄が沔水に入りつつあり自分が先鋒であると偽って告げた。郗恢の衆はこれを信じ抵抗の志を失った。郗恢の軍は散じ降を請い、楊佺期は府に入って閭丘羨を斬り、郗恢を都へ放って還らせ、将士を慰撫し百姓を救済し、城池を修繕し甲卒を訓練し大いに人心を得た。

孤立と敗死

  • 楊佺期・殷仲堪と桓玄はもとより不仲で、楊佺期はしばしば桓玄を攻めようとしたが殷仲堪が常に抑えていた。桓玄はこれを執政に告げ、自らの統べる地の拡大を求めた。朝廷もまた彼らの間の亀裂を助長しようとし、桓偉を南蠻校尉とした。楊佺期は内に忿懼を抱き兵を整え牙旗を建て、洛陽への支援を称して殷仲堪とともに桓玄を襲おうとした。殷仲堪は表向き楊佺期と結びながら内心その意図を疑い苦しく制止し、從弟の殷遹を北塞に屯させて楊佺期を牽制した。楊佺期は単独では事を起こせず兵を解いた。
  • 隆安三年(399年)、桓玄はついに兵を挙げて楊佺期を討とうとし、先に殷仲堪を攻めた。当初、殷仲堪は桓玄の書を受け急いで楊佺期を召した。楊佺期は「江陵に食糧がない、どうやって敵を待つのか。あなたが来られよ、共に襄陽を守ろう」と言ったが、殷仲堪は自ら境を保ち全軍を維持すべきで理由なく城を棄てて逃げるわけにいかないと考え、楊佺期が赴かないことを憂い、「近ごろ集積が進み既に蓄えがある」と欺いた。楊佺期はこれを信じ衆を率いて赴いた。歩騎八千、精鋭の甲は日に輝いた。到着すると殷仲堪はただ飯だけをその軍に供した。楊佺期は大いに怒り「これはもう敗れたな」と言い、殷仲堪に会おうとしなかった。当時桓玄は零口にあり、楊佺期は兄の楊廣とともに桓玄を撃った。桓玄は楊佺期の鋭さを恐れ軍を馬頭に渡した。翌日、楊佺期は殷道護らの精鋭一萬を率いて艦で出撃したが、桓玄はこれを防ぎ進ませなかった。楊佺期はその麾下数十艦を率いて直ちに江を渡り桓玄の船に向かった。まもなく反転して郭銓を撃ち、あわや郭銓を捕らえるところまで迫ったが、桓玄の諸軍が至り、楊佺期は退却し残りの衆はすべて没し、単騎で襄陽へ逃れた。桓玄の追軍が至り、楊佺期は兄の楊廣とともに死んだ。首は京都に伝えられ朱雀門に梟された。弟の楊思平、從弟の楊尚保・楊孜敬はいずれも蠻の地に逃れた。劉裕の挙兵後、初めて帰国し州郡の職を歴任した。

楊孜敬――楊氏の滅亡

  • 楊孜敬は人となり剽悍で果断であった。かつて楊佺期とともに殷仲堪に殷顗を殺すよう勧めたが、殷仲堪が従わないと、楊孜敬は刃を抜いて立ち自ら手を下そうとし、殷仲堪が必死に止めてようやく思いとどまった。梁州刺史となった際も常に不満げであった。襄陽を通った際、魯宗之の侍衛がみな楊佺期の旧部下であるのを見て楊孜敬はさらに憤り、言葉と表情に表れた。魯宗之の參軍劉千期が座で面と向かって楊孜敬を折檻すると、楊孜敬は大いに怒り剣を抜いて劉千期を刺し即死させた。魯宗之は上表して楊孜敬を斬った。楊思平・楊尚保もまたのちに罪により誅せられ、楊氏はついに滅んだ。

史論

  • 史臣曰く、生霊の道は断たれ忠貞の路は絶たれ、あの弊れた冠(旧秩序)を棄て新しい履(新秩序)を崇めた。劉牢之はその主に事えることを誤り、また臣たる道にも背いた、功が多くとも疑われ、勢いは陵ぎながら信を失いやすく、兵を死地に投じて散じたことは、まことに二三(節操のなさ)の甚だしいものである。そもそも司牧(地方長官)たる者が愆ちを犯し、方隅(地方)が乱を起こす場合、口では勤王を唱えながら心では節に背くものだ。王恭は時政に鯁言(骨太な言葉)を発し、昔の賢人の風があった。王國寶が誅されても晉陽の兵(王恭の再挙)はなお起こった。これにより殷仲堪は僥倖を頼み楊佺期は無謀な行動に出た、志は多く食い違い兵は和せず、これをもって身を滅ぼすには十分であったが乱を静めるには足りなかった。
  • 贊に曰く、孝伯(王恭)は功を懐き、劉牢之は軍を総べた。王恭は端緒を興し、劉牢之もまた忠を汚した。殷仲堪と楊佺期はここに武を為し、旆を抽いて雄を争った。庾楷は怨みを含み、その中で争闘した。ああ多くの才ある者たちよ、道は睽(そむ)き心は異なった。これを乱の階(きざはし)と言う、臣たる事に関わりないことではない。