晉書卷八十二 列傳第五十二 習鑿齒

習鑿齒(字は彥威、?–逝去年不詳)。襄陽の人。桓温に重用されたが、簡文帝を高く評価した発言で桓温の不興を買い左遷された。『漢晉春秋』を著して蜀漢を正統とし晉を漢の後継とする史論を展開、晩年は苻堅に招かれ、臨終に晉の正統性を説く遺表を上奏した。

年表(6件)
  • 若年荊州刺史桓温に從事として招かれ、のち西曹主簿として重用される
  • のち京師への使者となり簡文帝を「生涯見たことのない人物」と評したことが桓温の意に逆らい、戸曹參軍に左遷される
  • のち桓温が舅の羅崇・羅友を襄陽都督に抜擢する一方、習鑿齒は滎陽太守として外に出される
  • 郡の任を解かれ帰郷した頃桓温の非望を正そうと『漢晉春秋』全五十四巻を著す。蜀漢を正統とし、晉は漢を継ぐとする史論を展開
  • 襄陽陥落後苻堅に招かれ厚遇される。足の病のため襄陽に帰る
  • のち襄陽・鄧が正義に戻り朝廷が国史を任せようとするが、実現前に卒去。臨終に晉の正統性を説く遺表を上奏する

桓温への出仕

  • 習鑿齒、字は彥威、襄陽の人。一族は富み栄え代々郷豪であった。習鑿齒は若くして志気があり博学で聞見が広く文筆で著名であった。荊州刺史桓温が從事に招き、江夏相袁喬が深くその才を認めしばしば桓温にその才を称え、西曹主簿に転じ親しく重用された。
  • 当時桓温は大志を抱き、天文に通じた蜀人を招き夜に手を執って国家の祚運の長短を問うた。天文家は「世祀まさに永し」と答えたが、桓温がその言を疑うと「言う通りであれば私だけでなく万民の幸いだが、今日は言葉を尽くしましょう、必ず小さな厄運があるので、それもお話しします」と飾って言い、「太微・紫微・文昌三宮の気候はこの通りで、決して憂いはない、五十年より先のことは分からない」と続けた。桓温は喜ばず、そのまま話を終えた。後日、桓温は絹一匹・銭五千文をこの天文家に贈った。天文家は急いで習鑿齒を訪ね「私は益州の家の者で命により遠く下ってきましたが、今自裁の旨を賜り、遺骸を届ける術がありません。あなたの仁厚により標碣(墓標)と棺木を頼みたい」と言った。習鑿齒がわけを問うと、天文家は「絹一匹を賜ったのは自裁せよということ、銭五千を賜ったのは棺を買えということです」と答えた。習鑿齒は「あなたはもう少しで誤って死ぬところだった。以前『星宿を予知する者には覆らぬ道理がある』と聞いたことがないか。これは絹であなたを試したのであり、銭は道中の資であなたを去らせようとしたのだ」と説明した。天文家は大いに喜び、翌日桓温に別れを告げに行った。桓温が去る理由を尋ねると、天文家は習鑿齒の言葉を答え、桓温は笑って「私は彼が誤って死ぬことを心配していたが、彼は誤って生きることになったな。三十年儒書を読んでも、一度習主簿を訪ねるのに及ばぬということだ」と言った。

桓温との確執

  • 習鑿齒は別駕に累進した。桓温が征伐に出る際、習鑿齒は従うことも留守を守ることもあり、常に要職にあって功績を挙げ、尺牘(書簡)や論議に巧みで桓温はこれを重用した。当時清談・文章の士である韓伯・伏滔らと親交があった。のち京師への使者となり、簡文帝もこれを重んじた。帰還後、桓温が「相王(簡文帝)はどうであったか」と問うと、習鑿齒は「生涯見たことのない人物です」と答えた。これが桓温の意にひどく逆らい、戸曹參軍に左遷された。当時桑門(僧)の釋道安が俊敏な才を持ち北から荊州に来て初めて習鑿齒と会った際、道安が「彌天の釋道安」と名乗ると、習鑿齒は「四海の習鑿齒」と応じ、当時の人々はこれを佳対とした。
  • かつて習鑿齒とその二人の舅、羅崇・羅友はともに州從事であった。習鑿齒が別駕に遷った際、舅たちの上位に立つことを憚りしばしば辞退を願い出た。桓温はのちに激怒し、あえてこの二人の舅を抜擢して相継いで襄陽都督とし、習鑿齒を滎陽太守として外に出した。桓温の弟桓秘もまた才気があり、常々習鑿齒と親しかった。習鑿齒が郡の任を解かれて帰郷する際、桓秘に書を送った。

桓秘への書簡

  • その書で習鑿齒は「私は五三日前に襄陽に着いたが、目にする物すべてが悲しみを誘い、まったく喜びを感じられなかった。この痛惜は文で言い尽くせるものではない。家舅(羅崇・羅友)に挨拶するたび北門から入り、西に隆中を望んでは臥龍(諸葛亮)の吟を思い、東に白沙を眺めては鳳雛(龐統)の声を偲び、北に樊墟を臨んでは鄧老(鄧禹か)の高風を偲び、南に城邑を眷みては羊公(羊祜)の風を懐かしみ、檀溪に目を放っては崔徐(崔州平・徐庶)の交わりを思い、魚梁を眺めては二德(龐德公ら)の遠さを追う。いつも徘徊し時を移し、惆悵極まりなく、乗り物の上でためらい慨然として泣いてしまう。魏武(曹操)が酒を置いた場所、孫堅が没した場所、裴・杜の旧居、繁・王の旧宅など、遺跡は星のように連なり目に満ちている。瑣々たる常流、碌々たる凡士では、とてもこの胸中を動かせない」と書いた。
  • また「芬芳は椒蘭に起こり、清響は琳琅に生ずる。世を命じて佐となる者は必ず大きく残る余風を垂らし、高尚で徳に進む者は必ず優れた遺事を持つ。あの八君子(前段に挙げた人々)は千載を経てもなお人にその人柄を偲ばせる、まして隔たりが遠くない我々においてはなおさらだ。彼らの時代と今とは異なるが、今日の才が昔日に劣るとは限らず、百年ののち、私とあなたが景升(劉表)のようにならないと誰が言えようか」と述べた。
  • 習鑿齒のこの気風はこのように優れていた。

漢晉春秋の撰述

  • 当時桓温は非望を覬覦しており、習鑿齒は郡にあって『漢晉春秋』を著しこれを正そうとした。漢の光武帝に始まり晉の湣帝に終わる。三国の時代について蜀を宗室として正統とし、魏武帝(曹操)は漢から禅を受けたとされるが実際は簒逆であり、文帝(司馬昭)が蜀を平定した時点で漢は亡び晉が興ったとした。世祖(司馬炎)の諱である「炎」(火徳・興)を引いて禅受としたのは、天心が権勢に強いられないことを明らかにするためであった。全五十四巻。のち脚の病により郷里に隠退した。
  • 襄陽が苻堅に陥落した際、苻堅はかねてその名声を聞いており道安とともに輿に乗せて連れてこさせた。会見して語り合い大いに喜び厚く贈物をした。また習鑿齒が足の病であることから、諸鎮への書簡で「昔晉氏が呉を平定した際、利益は二陸(陸機・陸雲)にあった。今漢南を破って得た人材はわずか一人半ほどに過ぎない」と評した(一人は道安、半人が習鑿齒の意)。まもなく病により襄陽に帰った。ほどなく襄陽・鄧が正義に戻ったため、朝廷は習鑿齒を召して国史を任せようとしたが、卒したため実現しなかった。臨終に上疏した。

遺表と正統論

  • その上疏で「臣は常に皇晉は魏を越えて漢を継ぐべきで、魏の後裔を三恪(三代の後裔として礼遇する存在)とすべきではないと考えていたが、身分が低く官も卑しく上達する術がなく、この愚かな思いを抱いて三十余年経った。今重い病に沈み、性命も保ち難く、ついにこの思いを抱いたまま朽ち果てることを深く悼み惜しんでいる。謹んで力を尽くして論一篇を著し、以下に写して差し上げる。願わくは陛下が古の義を考え尋ね、経常の道を求め、超然と遠く見渡し、臣の身分の低さゆえにこの言を廃されないことを」と述べ、その論を付した。
  • 論では、ある人が「魏武帝の功は中夏を蓋い、文帝は漢より禅を受けた。それなのにあなたは漢が晉に継がれると言う、それが実理と言えるのか。魏が廃されれば晉の道も病むことになる、晉の臣子として同じことが言えるのか」と問うたのに対し、習鑿齒は「これはまさに晉を尊ぶ所以である。ただ音楽の節に喩えれば、絶えた節に赴く曲は常人には悲しくは聞こえない、見方が異なれば心も異なるものだ、奇異に見えても察せられないなら子のために語ろう」と答える形式で論じた。
  • 論旨の要点は次の通りである。漢氏が失御して以来三国が鼎立し戦乱は百年に及んだが、実際には各々乱にすぎなかった。宣皇帝(司馬懿)は当時魏の勢力に逼られ屈従して危険な立場に耐え、魏武帝の死後大難を免れ、南に孟達を擒え東に海隅を平らげ西に蜀を抑え、諸夏を撫で呉の侵攻を挫き曹爽の党を掃い、霊根を植えて中嶽に跨り、命世の志を恢げた。景帝・文帝(司馬師・司馬昭)がこれを継ぎ、梁益を席巻し西極を征し、功は天に格り勲は古の名将に等しい。武皇帝(司馬炎)に至って呉を併せ天下を統一し、三国の大害を除き漢末の争いを静め、九域の蒙昧を開き千載の盛功を定めたのはすべて司馬氏である。それなのに魏を継承の正統とし晉が魏を承けたとするのは、唐虞に比しながら自ら純臣を称するようなもので、惜しむべきことだ。
  • さらに、もし魏に王としての德が足りぬなら王道は成立せず、王道が足りぬなら魏は一日たりとも王ではなかったことになる。共工が九州を制し秦の政(始皇帝)が天下を平らげても帝王の序列に入らず戦国に埋没したように、数州を制するに過ぎなかった魏をなぜ一代の正統として推すのか。晉が魏に仕えたことを理由に皇德を傷つけることを憚り禅の名を惜しむのは大いに誤りである。隗囂が隴に拠り公孫述が蜀に帝したように、大義において服属は実質に関わらない。宣帝(司馬懿)が魏に仕えたのは性命に逼られたためであり、その禅代の義は堯舜のそれとは異なる、事実を照らして名を定めれば後世に必ず明らかになる。
  • 業を成す者は行った所によるのではなく成し遂げた所により、功を立てる者は済した所を言うのであり起こした所を言わない。故に漢の高祖は懐王より命を稟けたが、劉氏は亡秦に取って代わり、二つの偽(項羽・秦)を超えて遠く継承した。積んだ勲功と静めた乱、衆の支持は、燕噲の授与や因藉の力に頼ったものではなく、廟堂で長く策を巡らし呉蜀を両断して天下を平定したのは、魏武でさえ臣にできなかった者を服させ、代々除けなかった害を除いたことになる。
  • 漢末の五六十年、呉魏は道に逆らいながら強く、蜀は正義を杖にしながら弱く、三国は一つになれず万民は主を失っていた。天下を定める大功を立て天下に推されることは、暗愚な者や弱小な者に推されるのとは異なる。天に配して帝となり三代(夏殷周)に比肩するのは、曹氏に頭を下げ不正の側に身を置くのとは比較にならない。実情に即し取るところに恥がないのに、なぜ偽りに事寄せて将来に乱を開くようなことをするのか。故旧の恩により魏の後裔を封じることはできても、三恪の数に列するべきではない。晉が漢を承けたことは功として顕然としており、正名は事理にも適う、なぜ不正の魏を虚しく尊んで我が道を大きく損なうのか。
  • 昔周人は祖宗の德を詠い商を翦る功を追述し、孔子は大孝の道を明らかにし天に配する義を高く称えた。しかし后稷が職に勤めたのは商を翦るためではなく、司馬氏が曹族に仕えたのとは事情が異なる、三祖(司馬懿・司馬師・司馬昭)は魏の世に身を寄せていただけである。魏の君主としての道が正しくなければ三祖が魏の臣であった義もまた尽きていない。義が尽きていないからこそ道を借りて高略を運び、道が正しくないからこそ君臣の節に別があった。そうであれば、魏を輔けたからといって天下を奪う嫌疑を負わず、労せずして静乱の功を得たのは、その勲功が四海に王たるに値し、その義が天位に登るに足りたからであり、我が德は周に劣るとも彼の道は殷商とは異なるからである。
  • 今、共工が帝王の列に入らぬことを疑わず、漢が周を継いで秦を継がないことを訝しまないのに、なぜ魏一国のことだけ迷い続けるのか。君を尊びたいなら堯舜の道に推し進めるべきであり、国を重んじたいなら耐えられぬ地位に置くべきではない、それでこそ君子の高義と言えよう。もしまだ悟らないなら、ここで議論を止めるほかない。
  • 習鑿齒の子は習辟強といい、才学は父の風を持ち、驃騎從事中郎に至った。